もったい》ないじゃないか」
が、歌麿は腰の矢立を抜き取ったまま、視線を釘附《くぎづけ》にされたように、お近の胸のあたりを見つめて動こうともしなかった。
「ちぇッ、なんて意気地がない人なんだろう」
そういって女が苦笑した刹那《せつな》だった。入口の雨戸が開いたと思う間もなく「おや、これは旦那」というお袋の声が聞えたが、すぐに頭の上で、追っかぶせるように、「こいつアめずらしい、歌麿だな」という皮肉な男の声が、いきなり歌麿の耳朶《じだ》を顫《ふる》わせた。
「あッ。――」
「まア待ちねえ。逃げるにゃ及ばねえ」
「へえ。――」
しかし、こう答えた時の歌麿は、もはや入口の閾《しきい》を跨《また》いで、路地の溝板《どぶいた》を踏《ふ》んでいた。
「か、駕籠屋《かごや》。か、茅場町《かやばちょう》だ。――」
跣足《はだし》の歌麿は、通りがかりの駕籠屋を呼ぶにさえ、満足に声が出なかった。
三
自分の家の畳の上に坐って、雇婆《やといばばあ》の汲《く》んでくれた水を、茶碗に二杯立続けに飲んでも、歌麿は容易に動悸《どうき》がおさまらなかった。
あの顔、あの声、あの足音。――それは如何《いか》に忘れようとしても、忘れることの出来ない、南町奉行《みなみまちぶぎょう》の同心《どうしん》、渡辺金兵衛の姿なのだ。――
「つね。おもての雨戸の心張《しんばり》を、固くして、誰が来ても、決して開けちゃならねえぞ」
「はい」
「酒だ。それから、速く床をひいてくんねえ」
まごまごしている雇婆を急《せ》き立《た》てて、冷《ひや》のままの酒を、ぐっと一息に呷《あお》ると、歌麿の巨体は海鼠《なまこ》のように夜具の中に縮まってしまった。
「ああいやだ。――」
もう一度、ぶるぶるッと身を顫《ふる》わせた歌麿は、何とかして金兵衛の姿を、眼の先から消そうと努《つと》めた。が、そうすればする程、却《かえ》ってあの鬼のような金兵衛の顔は、まざまざと夜具の中の闇から、歌麿の前に迫るばかりであった。
「もう二度と、白洲《しらす》の砂利《じゃり》は踏《ふ》みたくねえ」
歌麿は誰にいうともなく、拝《おが》むようにこういって、掌《て》を合せた。
その記憶は、五十日の手錠《てじよう》の刑に遭《あ》った、あの一昨年の一件に外ならなかった。
つばくろの白い腹がひらりとひとつ返る度毎に、空の色が澄ん
前へ
次へ
全15ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
邦枝 完二 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング