ょうきち》の女形《おやま》、会《あ》ってるだけでも、気《き》が晴《は》れ晴《ば》れとするようだぜ」
ふと、とんぼの影《かげ》が障子《しょうじ》から離《はな》れた。と同時《どうじ》に藤吉《とうきち》の声《こえ》が、遠慮勝《えんりょが》ちに縁先《えんさき》から聞《きこ》えた。
「師匠《ししょう》、太夫《たゆう》がおいでになりました」
「おおそうか。直《す》ぐにこっちへお通《とお》ししな」
じっと畳《たたみ》の上《うえ》を見詰《みつ》めているおせんは、たじろぐように周囲《しゅうい》を見廻《みまわ》した。
「お師匠《ししょう》さん、後生《ごしょう》でござんす。あたしをこのまま、帰《かえ》しておくんなさいまし」
「なんだって」
春信《はるのぶ》は大《おお》きく眼《め》を見《み》ひらいた。
七
たとえば青苔《あおこけ》の上《うえ》に、二つ三つこぼれた水引草《みずひきそう》の花《はな》にも似《に》て、畳《たたみ》の上《うえ》に裾《すそ》を乱《みだ》して立《た》ちかけたおせんの、浮《う》き彫《ぼり》のような爪先《つまさき》は、もはや固《かた》く畳《たたみ》を踏《ふ》んではいなかった。
「ははは、おせん。みっともない、どうしたというんだ」
春信《はるのぶ》の、いささか当惑《とうわく》した視線《しせん》は、そのまま障子《しょうじ》の方《ほう》へおせんを追《お》って行《い》ったが、やがて追《お》い詰《つめ》られたおせんの姿《すがた》が、障子《しょうじ》の際《きわ》にうずくまるのを見《み》ると、更《さら》に解《げ》せない思《おも》いが胸《むね》の底《そこ》に拡《ひろ》がってあわてて障子《しょうじ》の外《そと》にいる藤吉《とうきち》に声《こえ》をかけた。
「藤吉《とうきち》、堺屋《さかいや》の太夫《たゆう》に、もうちっとの間《あいだ》、待《ま》っておもらい申《もう》してくれ」
「へえ」
おおかた、もはや縁先近《えんさきちか》くまで来《き》ていたのであろう。藤吉《とうきち》が直《す》ぐさま松江《しょうこう》に春信《はるのぶ》の意《い》を伝《つた》えて、池《いけ》の方《ほう》へ引《ひ》き返《かえ》してゆく気配《けはい》が、障子《しょうじ》に映《うつ》った二つの影《かげ》にそれと知《し》れた。
「おせん」
「あい」
「お前《まえ》、何《なに》か訳《わけ》があってだの」
「いいえ、何《なに》も訳《わけ》はござんせぬ」
「隠《かく》すにゃ当《あた》らないから、有様《ありよう》にいって見《み》な、事《こと》と次第《しだい》に因《よ》ったら、堺屋《さかいや》は、このままお前《まえ》には会《あわ》せずに、帰《かえ》ってもらうことにする」
「そんなら、あたしの願《ねが》いを聞《き》いておくんなさいますか」
「聞《き》きもする。かなえもする。だが、その訳《わけ》は聞《き》かしてもらうぜ」
「さァその訳《わけ》は。――」
「まだ隠《かく》しだてをするつもりか。あくまで聞《き》かせたくないというなら、聞《き》かずに済《す》ませもしようけれど、そのかわりおいらはもうこの先《さき》、金輪際《こんりんざい》、お前《まえ》の絵《え》は描《か》かないからそのつもりでいるがいい」
「まァお師匠《ししょう》さん」
「なァにいいやな。笠森《かさもり》のおせんは、江戸《えど》一|番《ばん》の縹緻佳《きりょうよ》しだ。おいらが拙《まず》い絵《え》なんぞに描《か》かないでも、客《きゃく》は御府内《ごふない》の隅々《すみずみ》から、蟻《あり》のように寄《よ》ってくるわな。――いいたくなけりゃ、聞《き》かずにいようよ」
いたずらに、もてあそんでいた三|味線《みせん》の、いとがぽつんと切《き》れたように、おせんは身内《みうち》に積《つも》る寂《さび》しさを覚《おぼ》えて、思《おも》わず瞼《まぶた》が熱《あつ》くなった。
「お師匠《ししょう》さん、堪忍《かんにん》しておくんなさい。あたしゃ、お母《かあ》さんにもいうまいと、固《かた》く心《こころ》にきめていたのでござんすが、もう何事《なにごと》も申《もう》しましょう。どっと笑《わら》っておくんなさいまし」
「おお、ではやっぱり何《なに》かの訳《わけ》があって。……」
「あい、あたしゃあの、浜村屋《はまむらや》の太夫《たゆう》さんが、死《し》ぬほど好《す》きなんでござんす」
「えッ。菊之丞《きくのじょう》に。――」
「あい。おはずかしゅうござんすが。……」
消えも入《い》りたいおせんの風情《ふぜい》は、庭《にわ》に咲《さ》く秋海棠《しゅうかいどう》が、なまめき落《お》ちる姿《すがた》をそのまま悩《なや》ましさに、面《おもて》を袂《たもと》におおい隠《かく》した。
じッと、釘《くぎ》づけにされたように、春信《はるのぶ》の眼《め》は、おせんの襟脚《えりあし》から動《うご》かなかった。が、やがて静《しず》かにうなずいたその顔《かお》には、晴《は》れやかな色《いろ》が漂《ただよ》っていた。
「おせん」
「あい」
「よくほれた」
「えッ」
「当代《とうだい》一の若女形《わかおやま》、瀬川菊之丞《せがわきくのじょう》なら、江戸《えど》一|番《ばん》のお前《まえ》の相手《あいて》にゃ、少《すこ》しの不足《ふそく》もあるまいからの。――判《わか》った。相手《あいて》がやっぱり役者《やくしゃ》とあれば、堺屋《さかいや》に会《あ》うのは気《き》が差《さ》そう。こりゃァ何《な》んとでもいって断《ことわ》るから、安心《あんしん》するがいい」
八
勢《きお》い込《こ》んで駕籠《かご》で乗《の》り着《つ》けた中村松江《なかむらしょうこう》は、きのうと同《おな》じように、藤吉《とうきち》に案内《あんない》されたが、直《す》ぐ様《さま》通《とお》してもらえるはずの画室《がしつ》へは、何《なに》やら訳《わけ》があって入《はい》ることが出来《でき》ぬところから、ぽつねんと、池《いけ》の近《ちか》くにたたずんだまま、人影《ひとかげ》に寄《よ》って来《く》る鯉《こい》の動《うご》きをじっと見詰《みつ》めていた。
師《し》の歌右衛門《うたえもん》を慕《した》って江戸《えど》へ下《くだ》ってから、まだ足《あし》かけ三|年《ねん》を経《へ》たばかりの松江《しょうこう》が、贔屓筋《ひいきすじ》といっても、江戸役者《えどやくしゃ》ほどの数《かず》がある訳《わけ》もなく、まして当地《とうち》には、当代随《とうだいずい》一の若女形《わかおやま》といわれる、二|代目《だいめ》瀬川菊之丞《せがわきくのじょう》が全盛《ぜんせい》を極《きわ》めていることとて、その影《かげ》は決《けっ》して濃《こ》いものではなかった。が、年《とし》は若《わか》いし、芸《げい》は達者《たっしゃ》であるところから、作者《さくしゃ》の中村重助《なかむらじゅうすけ》が頻《しき》りに肩《かた》を入《い》れて、何《なに》か目先《めさき》の変《かわ》った狂言《きょうげん》を、出《だ》させてやりたいとの心《こころ》であろう。近頃《ちかごろ》春信《はるのぶ》の画《え》で一|層《そう》の評判《ひょうばん》を取《と》った笠森《かさもり》おせんを仕組《しく》んで、一|番《ばん》当《あ》てさせようと、松江《しょうこう》が春信《はるのぶ》と懇意《こんい》なのを幸《さいわ》い、善《ぜん》は急《いそ》げと、早速《さっそく》きのうここへ訪《たず》ねさせての、きょうであった。
「太夫《たゆう》、お待遠《まちどお》さまでござんしょうが、どうかこちらへおいでなすって、お茶《ちゃ》でも召上《めしあが》って、お待《ま》ちなすっておくんなまし」
藤吉《とうきち》にも、何《な》んで師匠《ししょう》が堺屋《さかいや》を待《ま》たせるのか、一|向《こう》合点《がってん》がいかなかったが、張《は》り詰《つ》めていた気持《きもち》が急《きゅう》に緩《ゆる》んだように、しょんぼりと池《いけ》を見詰《みつ》めて立《た》っている後姿《うしろすがた》を見《み》ると、こういって声《こえ》をかけずにはいられなかった。
「へえ、おおきに。――」
「太夫《たゆう》は、おせんちゃんには、まだお会《あ》いなすったことがないんでござんすか」
「へえ、笠森様《かさもりさま》のお見世《みせ》では、お茶《ちゃ》を戴《いただ》いたことがおますが、先様《さきさま》は、何《なに》を知《し》ってではござりますまい。――したが若衆《わかしゅう》さん。おせんさんは、もはやお見《み》えではおますまいかな」
「つい今《いま》し方《がた》。――」
「では何《なに》か、絵《え》でも習《なろ》うていやはるのでは。――」
「さァ、大方《おおかた》そんなことでげしょうが、どっちにしても長《なが》いことじゃござんすまい。そこは日《ひ》が当《あた》りやす。こっちへおいでなすッて。……」
ふと踵《くびす》を返《かえ》して、二|足《あし》三|足《あし》、歩《ある》きかかった時《とき》だった。隅《すみ》の障子《しょうじ》を静《しず》かに開《あ》けて、庭《にわ》に降《お》り立《た》った春信《はるのぶ》は、蒼白《そうはく》の顔《かお》を、振袖姿《ふりそですがた》の松江《しょうこう》の方《ほう》へ向《む》けた。
「太夫《たゆう》」
「おお、これはお師匠《ししょう》さんは。早《はよう》からお邪間《じゃま》して、えろ済《す》みません」
「済《す》まないのは、お前《まえ》さんよりこっちのこと、折角《せっかく》眠《ねむ》いところを、早起《はやお》きをさせて、わざわざ来《き》てもらいながら、肝腎《かんじん》のおせんが。――」
「おせんさんが、なんぞしやはりましたか」
「急病《きゅうびょう》での」
「えッ」
「血《ち》の道《みち》でもあろうが、ここへ来《く》るなり頭痛《ずつう》がするといって、ふさぎ込《こ》んでしまったまま、いまだに顔《かお》も挙《あ》げない始末《しまつ》、この分《ぶん》じゃ、半時《はんとき》待《ま》ってもらっても、今朝《けさ》は、話《はなし》は出来《でき》まいと思《おも》っての、お気《き》の毒《どく》だが、またあらためて、会《あ》ってやっておもらい申《もう》すより、仕方《しかた》がないじゃなかろうかと、実《じつ》は心配《しんぱい》している訳《わけ》だが。……」
「それはまア」
「のう太夫《たゆう》。お前《まえ》さん、詫《わび》はあたしから幾重《いくえ》にもしようから、きょうはこのまま、帰《かえ》っておくんなさるまいか」
「それァもう、帰《かえ》ることは、いつでも帰《かえ》りますけれど、おせんさんが急病《きゅうびょう》とは、気《き》がかりでおますさかい。……」
「いや、気《き》に病《や》むほどのことでもなかろうが、何《なん》せ若《わか》い女《おんな》の急病《きゅうびょう》での。ちっとばかり、朝《あさ》から世間《せけん》が暗《くら》くなったような気《き》がするのさ」
「へえ」
春信《はるのぶ》の眼《め》は、松江《しょうこう》を反《そ》れて、地《ち》に曳《ひ》く萩《はぎ》の葉《は》に移《うつ》っていた。
雨《あめ》
一
「おい坊主《ぼうず》、火鉢《ひばち》の火《ひ》が消《き》えちゃってるぜ。ぼんやりしてえちゃ困《こま》るじゃねえか」
浜町《はまちょう》の細川邸《ほそかわてい》の裏門前《うらもんまえ》を、右《みぎ》へ折《お》れて一|町《ちょう》あまり、角《かど》に紺屋《こうや》の干《ほ》し場《ば》を見《み》て、伊勢喜《いせき》と書《か》いた質屋《しちや》の横《よこ》について曲《まが》がった三|軒目《げんめ》、おもてに一|本柳《ぽんやなぎ》が長《なが》い枝《えだ》を垂《た》れたのが目印《めじるし》の、人形師《にんぎょうし》亀岡由斎《かめおかゆうさい》のささやかな住居《すまい》。
まだ四十を越《こ》していくつにもならないというのが、一|見《けん》五十四五に見《み》える。髷《まげ》も白髪《しらが》もおかまいなし、床屋《とこや》の鴨居《かもい》は、もう二|月《つき》も潜《くぐ》
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