くまど》りでもしたように眼《め》の皮《かわ》をたるませた春重《はるしげ》の、上気《じょうき》した頬《ほほ》のあたりに、蝿《はえ》が一|匹《ぴき》ぽつんととまって、初秋《しょしゅう》の陽《ひ》が、路地《ろじ》の瓦《かわら》から、くすぐったい顔《かお》をのぞかせていた。
「おっといけねえ。春重《はるしげ》がやってくるぜ」
 煙草屋《たばこや》の角《かど》に立《た》ったまま、爪《つめ》を煮《に》る噂《うわさ》をしていた松《まつ》五|郎《ろう》は、あわてて八五|郎《ろう》に目《め》くばせをすると、暖簾《のれん》のかげに身《み》を引《ひ》いた。
「隠《かく》れるこたぁなかろう」
「そうでねえ。おいらは今《いま》逃《に》げて来《き》たばかりだからの。見付《みつ》かっちァことだ」
「そんなら、そっちへ引《ひ》っ込《こ》んでるがいい。もののついでに、おれがひとつ、鎌《かま》をかけてやるから。――」
 蛙《かえる》のように、眼玉《めだま》ばかりきょろつかせて暖簾《のれん》のかげから顔《かお》をだした松《まつ》五|郎《ろう》は、それでもまだ怯《おび》えていた。
「大丈夫《だいじょうぶ》かの」
「叱《し》ッ。そこへ来《き》たぜ」
 出合頭《であいがしら》のつもりかなんぞの、至極《しごく》気軽《きがる》な調子《ちょうし》で、八五|郎《ろう》は春重《はるしげ》の前《まえ》へ立《た》ちふさがった。
「重《しげ》さん、大層《たいそう》早《はえ》えの」
 びくっとしたように、春重《はるしげ》が爪先《つまさき》で立《た》ち止《どま》った。
「八つぁんか」
「八つぁんじゃねえぜ、一ぺえやったようないい顔色《かおいろ》をして、どこへ行《い》きなさる」
「柳湯《やなぎゆ》への」
「朝湯《あさゆ》たァしゃれてるの」
「しゃれてる訳《わけ》じゃねえが、寝《ね》ずに仕事《しごと》をしてたんで、湯《ゆ》へでも這入《はい》らねえことにゃ、はっきりしねえからよ」
「ふん、夜《よ》なべたァ恐《おそ》れ入《い》った。そんなに稼《かせ》いじゃ、銭《ぜに》がたまって仕方《しかた》があるめえ」
「だからよ。だから垢《あか》と一|緒《しょ》に、柳湯《やなぎゆ》へ捨《す》てに行《い》くところだ」
「ほう、済《す》まねえが、そんな無駄《むだ》な銭《ぜに》があるんなら、ちとこっちへ廻《まわ》して貰《もら》いてえの。おれだの松《まつ》五|郎《ろう》なんざ、貧乏神《びんぼうがみ》に見込《みこ》まれたせいか、いつもぴいぴい風車《かざぐるま》だ。そこへ行《い》くとおめえなんざ、おせんの爪《つめ》を糠袋《ぬかぶくろ》へ入《い》れて。……」
「なんだって八つぁん、おめえ夢《ゆめ》を見《み》てるんじゃねえか。爪《つめ》だの糠袋《ぬかぶくろ》だの、とそんなことァ、おれにゃァてんで通《つう》じねえよ」
「えええ隠《かく》しちゃァいけねえ。何《なに》から何《なに》まで、おれァ根《ね》こそぎ知《し》ってるぜ」
「知《し》ってるッて。――」
「知《し》らねえでどうするもんか。重《しげ》さん、おめえの夜《よ》あかしの仕事《しごと》は、銭《ぜに》のたまる稼《かせ》ぎじゃなくッて、色気《いろけ》のたまる楽《たの》しみじゃねえか」
「そ、そんなことが。……」
「嘘《うそ》だといいなさるのかい。証拠《しょうこ》はちゃんと上《あが》ってるんだぜ。おせんの爪《つめ》を煮《に》る匂《におい》は、さぞ香《こう》ばしくッて、いいだろうの」
「そいつを、おめえは誰《だれ》から聞《き》きなすった」
「誰《だれ》から聞《き》かねえでも、おいらの眼《め》は見透《みとお》しだて。――人間《にんげん》は、四百四|病《びょう》の器《うつわ》だというが、重《しげ》さん、おめえの病《やまい》は、別《べつ》あつらえかも知《し》れねえの」
 春重《はるしげ》は、きょろりとあたりを見廻《みまわ》してから、一|段《だん》声《こえ》を落《おと》した。
「ちょいと家《うち》へ寄《よ》らねえか。おもしろい物《もの》を見《み》せるぜ」
「折角《せっかく》だが、寄《よ》ってる暇《ひま》がねえやつさ。これから大急《おおいそぎ》ぎで、おせんの見世《みせ》まで行《い》かざァならねえんだ」
「おせんの見世《みせ》へ行《い》くッて、何《な》んの用《よう》でよ」
「何《な》んの用《よう》だか知《し》らねえが、春信師匠《はるのぶししょう》が、急《きゅう》に用《よう》ありとのことでの」
 八五|郎《ろう》は、春信《はるのぶ》から預《あずか》った結文《むすびふみ》を、ちょいと懐中《ふところ》から窺《のぞ》かせた。

  紅《べに》


    一

 ゆく末《すえ》は誰《だれ》が肌《はだ》触《ふ》れん紅《べに》の花《はな》  ばせを
「おッとッと、そう一人《ひとり》で急《いそ》いじゃいけねえ。まず御手洗《みたらし》で手《て》を浄《きよ》めての。肝腎《かんじん》のお稲荷《いなり》さんへ参詣《さんけい》しねえことにゃ、罰《ばち》が当《あた》って眼《め》がつぶれやしょう」
「いかさまこれは早《はや》まった。こかァ笠森様《かさもりさま》の境内《けいだい》だったッけの」
「冗談《じょうだん》じゃごわせん。そいつを忘《わす》れちゃ、申訳《もうしわけ》がありますめえ。――それそれ、何《な》んでまた、洗《あら》った手《て》を拭《ふ》きなさらねえ。おせんは逃《に》げやしねえから、落着《おちつ》いたり、落着《おちつ》いたり」
「御隠居《ごいんきょ》、そうひやかしちゃいけやせん。堪忍《かんにん》堪忍《かんにん》」
「はッはッはッ、徳《とく》さん。お前《まえ》の足《あし》ッ、まるッきり、地《じ》べたを踏《ふ》んじァいねえの」
 こおろぎの音《ね》も細々《ほそぼそ》と明《あ》け暮《く》れて、風《かぜ》に乱《みだ》れる芒叢《すすきむら》に、三つ四つ五つ、子雀《こすずめ》の飛《と》び交《か》うさまも、いとど憐《あわ》れの秋《あき》ながら、ここ谷中《やなか》の草道《くさみち》ばかりは、枯野《かれの》も落葉《おちば》も影《かげ》さえなく、四季《しき》を分《わか》たず咲《さ》き競《そ》うた、芙蓉《ふよう》の花《はな》が清々《すがすが》しくも色《いろ》を染《そ》めて、西《にし》の空《そら》に澄《す》み渡《わた》った富岳《ふがく》の雪《ゆき》に映《は》えていた。
 名《な》にし負《お》う花《はな》の笠森《かさもり》感応寺《かんのうじ》。渋茶《しぶちゃ》の味《あじ》はどうであろうと、おせんが愛想《あいそう》の靨《えくぼ》を拝《おが》んで、桜貝《さくらがい》をちりばめたような白魚《しらうお》の手《て》から、お茶《ちゃ》一|服《ぷく》を差《さ》し出《だ》されれば、ぞっと色気《いろけ》が身《み》にしみて、帰《かえ》りの茶代《ちゃだい》は倍《ばい》になろうという。女《おんな》ならでは夜《よ》のあけぬ、その大江戸《おおえど》の隅々《すみずみ》まで、子供《こども》が唄《うた》う毬唄《まりうた》といえば、近頃《ちかごろ》「おせんの茶屋《ちゃや》」にきまっていた。
 夜《よる》が白々《しらじら》と明《あ》けそめて、上野《うえの》の森《もり》の恋《こい》の鴉《からす》が、まだ漸《ようや》く夢《ゆめ》から覚《さ》めたか覚《さ》めない時分《じぶん》、早《はや》くも感応寺《かんのうじ》中門前町《なかもんぜんちょう》は、参詣《さんけい》の名《な》に隠《かく》れての、恋知《こいし》り男《おとこ》の雪駄《せった》の音《おと》で賑《にぎ》わいそめるが、十一|軒《けん》の水茶屋《みずちゃや》の、いずれの見世《みせ》に休《やす》むにしても、当《とう》の金的《きんてき》はかぎ屋《や》のおせんただ一人《ひとり》。ゆうべ吉原《よしわら》で振《ふ》り抜《ぬ》かれた捨鉢《すてばち》なのが、帰《かえ》りの駄賃《だちん》に、朱羅宇《しゅらう》の煙管《きせる》を背筋《せすじ》に忍《しの》ばせて、可愛《かわい》いおせんにやろうなんぞと、飛《と》んだ親切《しんせつ》なお笑《わら》い草《ぐさ》も、数《かず》ある客《きゃく》の中《なか》にも珍《めずら》しくなかった。
「はいお早《はよ》う」
「ああ喉《のど》がかわいた」
 赤《あか》い鳥居《とりい》の手前《てまえ》にある。伊豆石《いずいし》の御手洗《みたらし》で洗《あら》った手《て》を、拭《ふ》くのを忘《わす》れた橘屋《たちばなや》の若旦那《わかだんな》徳太郎《とくたろう》が、お稲荷様《いなりさま》への参詣《さんけい》は二の次《つ》ぎに、連《つ》れの隠居《いんきょ》の台詞通《せりふどお》り、土《つち》へつかない足《あし》を浮《う》かせて、飛《と》び込《こ》んで来《き》たおせんの見世先《みせさき》。どかりと腰《こし》をおろした縁台《えんだい》に、小腰《こごし》をかがめて近寄《ちかよ》ったのは、肝腎《かんじん》のおせんではなくて、雇女《やといめ》のおきぬだった。
「いらっしゃいまし。お早《はや》くからようこそ御参詣《おさんけい》で。――」
「茶《ちゃ》をひとつもらいましょう」
「はい、唯今《ただいま》」
 三四|人《にん》の先客《せんきゃく》への遠慮《えんりょ》からであろう。おきぬが茶《ちゃ》を汲《く》みに行《い》ってしまうと、徳太郎《とくたろう》はじくりと固唾《かたず》を呑《の》んで声《こえ》をひそめた。
「おかしいの。居《お》りやせんぜ」
「そんなこたァごわすまい。看板《かんばん》のねえ見世《みせ》はあるまいからの」
「だが御隠居《ごいんきょ》。おせんは影《かげ》もかたちも見《み》えやせんよ」
「あわてずに待《ま》ったり。じきに奥《おく》から出《で》て来《き》ようッて寸法《すんぽう》だろう」
「朝飯《あさめし》とお踏《ふ》みなすったか」
「そうだ。それともお前《まえ》さんのくるのを知《し》って、念入《ねんい》りの化粧《けしょう》ッてところか」
「嬉《うれ》しがらせは殺生《せっしょう》でげす。――おっと姐《ねえ》さん。おせんちゃんはどうしやした」
「唯今《ただいま》ちょいとお詣《まい》りに。――」
「どこへの」
「お稲荷様《いなりさま》でござんすよ」
「うむ、違《ちが》いない。ここァお稲荷様《いなりさま》の境内《けいだい》だっけの」
 徳太郎《とくたろう》は漸《ようや》く安心《あんしん》したように、ふふふと軽《かる》く内所《ないしょ》で笑《わら》った。

    二

 橘屋《たちばなや》の若旦那《わかだんな》徳太郎《とくたろう》が、おせんの茶屋《ちゃや》で安心《あんしん》の胸《むね》を撫《な》でおろしていた時分《じぶん》、当《とう》のおせんは、神田白壁町《かんだしろかべちょう》の鈴木春信《すずきはるのぶ》の住居《すまい》へと、ひたすら駕籠《かご》を急《いそ》がせた。
「相棒《あいぼう》」
「おお」
「威勢《いせい》よくやんねえ」
「合点《がってん》だ」
「そんじょそこらの、大道臼《だいどううす》を乗《の》せてるんじゃねえや。江戸《えど》一|番《ばん》のおせんちゃんを乗《の》せてるんだからの」
「そうとも」
「こうなると、銭金《ぜにかね》のお客《きゃく》じゃァねえ。こちとらの見得《みえ》になるんだ」
「その通《とお》りだ」
「おれァ、一|度《ど》、半蔵松葉《はんぞうまつば》の粧《よそ》おいという花魁《おいらん》を、小梅《こうめ》の寮《りょう》まで乗《の》せたことがあったっけが、入山形《いりやまがた》に一つ星《ぼし》の、全盛《ぜんせい》の太夫《たゆう》を乗《の》せた時《とき》だって、こんないい気持《きも》はしなかったぜ」
「もっともだ」
「垂《たれ》を揚《あ》げて、世間《せけん》の仲間《なかま》に見《み》せてやりてえくれえのものだの」
「おめえばかりじゃねえ。そいつァおいらもおんなじこッた」
「もし姐《ねえ》さん」と、後《うしろ》の方《ほう》から声《こえ》がかかった。
「あい」
「どうでげす。駕籠《かご》の垂《たれ》を揚《あ》げさしちァおくんなさるめえか」
「堪忍《かんにん》しておくんなさい。あたしゃ内所《ないしょ》の用事《よう
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