》きなよ。匂《におい》だぜ。このたまらねえいい匂《におい》だぜ」
「冗談《じょうだん》じゃねえ。おいらァいくら何《な》んだって、こんな匂《におい》をかぎたくッて、通《かよ》うような馬鹿気《ばかげ》たこたァ。……」
「あれだ。おめえにゃまだ、まるッきり判《わか》らねえと見《み》えるの。こいつだ。この匂《におい》が、嘘《うそ》も隠《かく》しもねえ、女《おんな》の匂《におい》だってんだ」
「馬鹿《ばか》な、おめえ。――」
「そうか。そう思《おも》ってるんなら、いまおめえに見《み》せてやる物《もの》がある。きっとびっくりするなよ」
 春重《はるしげ》はこういいながら、いきなり真暗《まっくら》な戸棚《とだな》の中《なか》へ首《くび》を突《つ》っ込《こ》んだ。

    五

 じりじりッと燈芯《とうしん》の燃《も》え落《お》ちる音《おと》が、しばしのしじまを破《やぶ》ってえあたりを急《きゅう》に明《あか》るくした。が、それも束《つか》の間《ま》、やがて油《あぶら》が尽《つ》きたのであろう。行燈《あんどん》は忽《たちま》ち消《き》えて、あたりは真《しん》の闇《やみ》に変《かわ》ってしまった。
「いたずらしちゃァいけねえ。まるっきりまっ暗《くら》で、何《な》んにも見《み》えやしねえ」
 背伸《せの》びをして、三|尺《じゃく》の戸棚《とだな》の奥《おく》を探《さぐ》っていた春重《はるしげ》は、闇《やみ》の中《なか》から重《おも》い声《こえ》でこういいながら、もう一|度《ど》、ごとり[#「ごとり」に傍点]と鼠《ねずみ》のように音《おと》を立《た》てた。
「いたずらじゃねえよ。油《あぶら》が切《き》れちゃったんだ」
「油《あぶら》が切《き》れたッて。そんなら、行燈《あんどん》のわきに、油差《あぶらさし》と火口《ほくち》がおいてあるから、速《はや》くつけてくんねえ」
「どこだの」
「行燈《あんどん》の右手《みぎて》だ」
 口《くち》でそういわれても、勝手《かって》を知《し》らない暗《やみ》の中《なか》では、手探《てさぐ》りも容易《ようい》でなく、松《まつ》五|郎《ろう》は破《やぶ》れ畳《たたみ》の上《うえ》を、小気味悪《こきみわる》く這《は》い廻《まわ》った。
「速《はや》くしてもらいてえの」
「いまつける」
 探《さぐ》り当《あ》てた油差《あぶらさし》を、雨戸《あまど》の隙間《すきま》から微《かす》かに差《さ》し込《こ》む陽《ひ》の光《ひかり》を頼《たよ》りに、油皿《あぶらざら》のそばまで持《も》って行《い》った松《まつ》五|郎《ろう》は、中指《なかゆび》の先《さき》で冷《つめ》たい真鍮《しんちゅう》の口《くち》を加減《かげん》しながら、とッとッとと、おもく落《お》ちた油《あぶら》を透《す》かして見《み》たが、さてどうやらそれがうまく運《はこ》ぶと、これも足《あし》の先《さき》で探《さぐ》り出《だ》した火口《ほくち》を取《と》って、やっとの思《おも》いで行燈《あんどん》に灯《ひ》をいれた。
 ぱっと、漆盆《うるしぼん》の上《うえ》へ欝金《うこん》の絵《え》の具《ぐ》を垂《た》らしたように、あたりが明《あか》るくなった。同時《どうじ》に、春重《はるしげ》のニヤリと笑《わら》った薄気味悪《うすきみわる》い顔《かお》が、こっちを向《む》いて立《た》っていた。
「松《まつ》つぁん。おめえ本当《ほんとう》に、女《おんな》の匂《におい》は、麝香《じゃこう》の匂《におい》だと思《おも》ってるんだの」
「そりゃァそうだ。こんな生皮《なまかわ》のような匂《におい》が女《おんな》の匂《におい》でたまるもんか」
「そうか。じゃァよくわかるように、こいつを見《み》せてやる」
 編《あ》めば牛蒡締《ごぼうじめ》くらいの太《ふと》さはあるであろう。春重《はるしげ》の手《て》から、無造作《むぞうさ》に投《な》げ出《だ》された真《ま》ッ黒《くろ》な一|束《たば》は、松《まつ》五|郎《ろう》の膝《ひざ》の下《した》で、蛇《へび》のようにひとうねりうねると、ぐさりとそのまま畳《たたみ》の上《うえ》へ、とぐろ[#「とぐろ」に傍点]を巻《ま》いて納《おさ》まってしまった。
「あッ」
「気味《きみ》の悪《わる》いもんじゃねえよ。よく手《て》に取《と》って、その匂《におい》を嗅《か》いで見《み》ねえ」
 松《まつ》五|郎《ろう》は行燈《あんどん》の下《した》に、じっと眼《め》を瞠《みは》った。
「これァ重《しげ》さん、髪《かみ》の毛《け》じゃねえか」
「その通《とお》りだ」
「こんなものを、おめえ。……」
「ふふふ、気味《きみ》が悪《わる》いか。情《なさけ》ねえ料簡《りょうけん》だの、爪《つめ》の匂《におい》がいやだというから、そいつを嗅《か》がせてやるんだが、これだって、髢《かもじ》なんぞたわけが違《ちが》って、滅多矢鱈《めったやたら》に集《あつ》まる代物《しろもの》じゃァねえんだ。数《かず》にしたら何万本《なんまんぼん》。しかも一|本《ぽん》ずつがみんな違《ちが》った、若《わか》い女《おんな》の髪《かみ》の毛《け》だ。――その中《なか》へ黙《だま》って顔《かお》を埋《う》めて見《み》ねえ。一人一人《ひとりひとり》の違《ちが》った女《おんな》の声《こえ》が、代《かわ》り代《がわ》りに聞《きこ》えて来《き》る。この世《よ》ながらの極楽《ごくらく》だ。上《うえ》はお大名《だいみょう》のお姫様《ひめさま》から、下《した》は橋《はし》の下《した》の乞食《こじき》まで、十五から三十までの女《おんな》と名《な》のつく女《おんな》の髪《かみ》は、ひと筋《すじ》残《のこ》らずはいってるんだぜ。――どうだ松《まつ》つぁん。おいらァ、この道《みち》へかけちゃ、江戸《えど》はおろか、蝦夷《えぞ》長崎《ながさき》の果《はて》へ行《い》っても、ひけは取《と》らねえだけの自慢《じまん》があるんだ。見《み》ねえ、髪《かみ》の毛《け》はこの通《とお》り、一|本《ぽん》残《のこ》らず生《い》きてるんだから。……」
 松《まつ》五|郎《ろう》の膝《ひざ》もとから、黒髪《くろかみ》の束《たば》を取《と》りあげた春重《はるしげ》は、忽《たちま》ちそれを顔《かお》へ押《お》し当《あ》てると、次第《しだい》に募《つの》る感激《かんげき》に身《み》をふるわせながら、異様《いよう》な声《こえ》で笑《わら》い始《はじ》めた。
「重《しげ》さん。おれァ帰《けえ》る」
「帰《けえ》るンなら、せめて匂《におい》だけでも嗅《か》いできねえ」
 が、松《まつ》五|郎《ろう》は、もはや腰《こし》が坐《すわ》らなかった。

    六

「ああ気味《きみ》が悪《わる》かった。ついゆうべの惚気《のろけ》を聞《き》かせてやろうと思《おも》って、寄《よ》ったばっかりに、ひでえ目《め》に遇《あ》っちゃった。変《かわ》り者《もの》ッてこたァ知《し》ってたが、まさか、あれ程《ほど》たァ思《おも》わなかった。――あんな奴《やつ》につかまっちゃァ、まったくかなわねえ」
 弾《はじ》かれた煎豆《いりまめ》のように、雨戸《あまど》の外《そと》へ飛《と》び出《だ》した松《まつ》五|郎《ろう》は、酔《よ》いも一|時《じ》に醒《さ》め果《は》てて、一|寸先《すんさき》も見《み》えなかったが、それでも溝板《どぶいた》の上《うえ》を駆《か》けだして、角《かど》の煙草屋《たばこや》の前《まえ》まで来《く》ると、どうやらほっと安心《あんしん》の胸《むね》を撫《な》でおろした。
「だが、いったいあいつは、何《な》んだってあんな馬鹿気《ばかげ》たことが好《す》きなんだろう。爪《つめ》を煮《に》たり、髪《かみ》の毛《け》の中《なか》へ顔《かお》を埋《う》めたり、気狂《きちがい》じみた真似《まね》をしちゃァ、いい気持《きもち》になってるようだが、虫《むし》のせえだとすると、ちと念《ねん》がいり過《す》ぎるしの。どうも料簡方《りょうけんがた》がわからねえ」
 ぶつぶつひとり呟《つぶや》きながら、小首《こくび》を傾《かし》げて歩《ある》いて来《き》た松《まつ》五|郎《ろう》は、いきなりぽんと一つ肩《かた》をたたかれて、はッ[#「はッ」に傍点]とした。
「どうした、兄《あに》ィ」
「おおこりゃ松住町《まつずみちょう》」
「松住町《まつずみちょう》じゃねえぜ。朝《あさ》っぱらから、素人芝居《しろうとしばい》の稽古《けいこ》でもなかろう。いい若《わけ》え者《もの》がひとり言《ごと》をいってるなんざ、みっともねえじゃねえか」
 坊主頭《ぼうずあたま》へ四つにたたんだ手拭《てぬぐい》を載《の》せて、朝《あさ》の陽差《ひざし》を避《さ》けながら、高々《たかだか》と尻《しり》を絡《から》げたいでたちの相手《あいて》は、同《おな》じ春信《はるのぶ》の摺師《すりし》をしている八五|郎《ろう》だった。
「みっともねえかも知《し》れねえが、あれ程《ほど》たァ思《おも》わなかったからよ」
「何《なに》がよ」
「春重《はるしげ》だ」
「春重《はるしげ》がどうしたッてんだ」
「どうもこうもねえが、あいつァおめえ、日本《にほん》一の変《かわ》り者《もの》だぜ」
「春重《はるしげ》の変《かわ》り者《もの》だってこたァ、いつも師匠《ししょう》がいってるじゃねえか。今《いま》さら変《かわ》り者《もの》ぐれえに、驚《おどろ》くおめえでもなかろうによ」
「うんにゃ、そうでねえ。ただの変《かわ》り者《もの》なら、おいらもこうまじゃ驚《おどろ》かねえが、一|晩中《ばんじゅう》寝《ね》ずに爪《つめ》を煮《に》たり、束《たば》にしてある女《おんな》の髪《かみ》の毛《け》を、一|本《ぽん》一|本《ぽん》しゃぶったりするのを見《み》ちゃァいくらおいらが度胸《どきょう》を据《す》えたって。……」
「爪《つめ》を煮《に》るたァ、そいつァいってえ何《な》んのこったい」
「薬罐《やかん》に入《い》れて、女《おんな》の爪《つめ》を煮《に》るんだ」
「女《おんな》の爪《つめ》を煮《に》る。――」
「そうよ。おまけにこいつァ、ただの女《おんな》の爪《つめ》じゃァねえぜ。当時《とうじ》江戸《えど》で、一といって二と下《くだ》らねえといわれてる、笠森《かさもり》おせんの爪《つめ》なんだ」
「冗談《じょうだん》じゃねえ。おせんの爪《つめ》が、何《な》んで煮《に》る程《ほど》取《と》れるもんか、おめえも人《ひと》が好過《よす》ぎるぜ。春重《はるしげ》に欺《だま》されて、気味《きみ》が悪《わる》いの恐《おそ》ろしいのと、頭《あたま》を抱《かか》えて帰《かえ》ってくるなんざ、お笑《わら》い草《ぐさ》だ。おおかた絵《え》を描《か》く膠《にかわ》でも煮《に》ていたんだろう。そいつをおめえが間違《まちが》って。……」
「そ、そんなんじゃねえ。真正《しんしょう》間違《まちが》いのねえおせんの爪《つめ》を紅《べに》の糠袋《ぬかぶくろ》から小出《こだ》しに出《だ》して、薬罐《やかん》の中《なか》で煮《に》てるんだ。そいつも、ただ煮《に》てるんならまだしもだが、薬罐《やかん》の上《うえ》へ面《つら》を被《かぶ》せて、立昇《たちのぼ》る湯気《ゆげ》を、血相《けっそう》変《か》えて嗅《か》いでるじゃねえか。あれがおめえ、いい心持《こころもち》で見《み》ていられるか、いられねえか、まず考《かんが》えてくんねえ」
「そいつを嗅《か》いで、どうしようッてんだ」
「奴《やつ》にいわせると、あのたまらなく臭《くせ》え匂《におい》が本当《ほんとう》の女《おんな》の匂《におい》だというんだ。嘘《うそ》だと思《おも》ったら、論《ろん》より証拠《しょうこ》、春重《はるしげ》の家《うち》へ行《い》って見《み》ねえ。戸《と》を締《し》め切《き》って、今《いま》が嬉《うれ》しがりの真《ま》ッ最中《さいちゅう》だぜ」
 が、八五|郎《ろう》は首《くび》を振《ふ》った。
「そいつァいけねえ。おれァ師匠《ししょう》の使《つか》いで、おせんのとこまで行《い》かにゃならねえんだ」

    七

 隈取《
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