―」
「それに違《ちげ》えねえやな。でえいち、外《ほか》にあんな匂《におい》をさせる家業《かぎょう》が、ある筈《はず》はなかろうじゃねえか。雪駄《せった》の皮《かわ》を、鍋《なべ》で煮《に》るんだ。軟《やわ》らかにして、針《はり》の通《とお》りがよくなるようによ」
「そうかしら」
「しら[#「しら」に傍点]も黒《くろ》もありァしねえ。それが為《ため》に、忙《いそが》しい時《とき》にゃ、夜《よ》ッぴて鍋《なべ》をかけッ放《はな》しにしとくから、こっちこそいい面《つら》の皮《かわ》なんだ。――この壁《かべ》ンところ鼻《はな》を当《あ》てて臭《か》いで見《み》ねえ。火事場《かじば》で雪駄《せった》の焼《や》け残《のこ》りを踏《ふ》んだ時《とき》と、まるッきり変《かわ》りがねえじゃねえか」
「あたしゃもう、ここにいてさえ、いやな気持《きもち》がするんだから、そんなとこへ寄《よ》るなんざ、真《ま》ッ平《ぴら》よ。――ねえお前《まえ》さん。後生《ごしょう》だから、かけ合《あ》って来《き》とくれよ」
「おめえ行《い》って来《き》ねえ」
「女《おんな》じゃ駄目《だめ》だというのにさ」
「男《おとこ》が行《い》っちゃァ、穏《おだ》やかでねえから、おめえ行《い》きねえッてんだ」
「だって、こんなこたァ、どこの家《うち》だって、みんな亭主《ていしゅ》の役《やく》じゃないか」
「おいらァいけねえ」
「なんて気《き》の弱《よわ》い人《ひと》なんだろう」
「臭《くせ》えからいやなんだ」
「お前《まえ》さんより、女《おんな》だもの。あたしの方《ほう》が、どんなにいやだか知《し》れやしない。――昔《むかし》ッから、公事《くじ》かけ合《あい》は、みんな男《おとこ》のつとめなんだよ」
「ふん。昔《むかし》も今《いま》もあるもんじゃねえ。隣近所《となりきんじょ》のこたァ、女房《にょうぼう》がするに極《きま》ッてらァな。行《い》って、こっぴどくやっ付《つ》けて来《き》ねえッてことよ」
 壁《かべ》一|重《え》隣《となり》の左官夫婦《さかんふうふ》が、朝飯《あさめし》の膳《ぜん》をはさんで、聞《きこ》えよがしのいやがらせも、春重《はるしげ》の耳《みみ》へは、秋《あき》の蝿《はえ》の羽《は》ばたき程《ほど》にも這入《はい》らなかったのであろう。行燈《あんどん》の下《した》の、薬罐《やかん》の上《うえ》に負《お》いかぶさったその顔《かお》は、益々《ますます》上気《じょうき》してゆくばかりであった。

    三

「重《しげ》さん。もし、重《しげ》さんは留守《るす》かい。――おやッ、天道様《てんとうさま》が臍《へそ》の皺《しわ》まで御覧《ごらん》なさろうッて真《ま》ッ昼間《ぴるま》、あかりをつけッ放《ぱな》しにしてるなんざ、ひど過《す》ぎるぜ。――寝《ね》ているのかい。起《お》きてるんなら開《あ》けてくんねえ」
 どこかで一|杯《ぱい》引《ひ》っかけて来《き》た、酔《よ》いの廻《まわ》った舌《した》であろう。声《こえ》は確《たしか》に彫師《ほりし》の松《まつ》五|郎《ろう》であった。
「ふふふふ。とうとう寄《よ》りゃがったな」
 首《くび》をすくめながら、口《くち》の中《なか》でこう呟《つぶや》いた春重《はるしげ》は、それでも爪《つめ》を煮込《にこ》んでいる薬罐《やかん》の傍《そば》から顔《かお》を放《はな》さずに、雨戸《あまど》の方《ほう》を偸《ぬす》み見《み》た。陽《ひ》は高々《たかだか》と昇《のぼ》っているらしく、今《いま》さら気付《きづ》いた雨戸《あまど》の隙間《すきま》には、なだらかな日《ひ》の光《ひかり》が、吹矢《ふきや》で吹《ふ》き込《こ》んだように、こまい[#「こまい」に傍点]の現《あらわ》れた壁《かべ》の裾《すそ》へ流《なが》れ込《こ》んでいた。
「春重《はるしげ》さん。重《しげ》さん。――」
 が、それでも春重《はるしげ》は返事《へんじ》をしずに、そのまま鎌首《かまくび》を上《あ》げて、ひそかに上《あが》りはなの方《ほう》へ這《は》い寄《よ》って行《い》った。
「おかしいな。いねえはずァねえんだが。――あかりをつけて寝《ね》てるなんざ、どっちにしても不用心《ぶようじん》だぜ。おいらだよ。松《まつ》五|郎《ろう》様《さま》の御登城《ごとじょう》だよ」
「もし、親方《おやかた》」
 突然《とつぜん》、隣《となり》の女房《にょうぼう》おたきの声《こえ》が聞《き》こえた。
「ねえお上《かみ》さん。ここの家《うち》ァ留守《るす》でげすかい。寝《ね》てるんだか留守《るす》なんだか、ちっともわからねえ」
「いますともさ。だが親方《おやかた》、悪《わる》いこたァいわないから、滅多《めった》に戸《と》を開《あ》けるなァお止《よ》しなさいよ。そこを開《あ》けた日《ひ》にゃ、それこそ生皮《なまかわ》の匂《におい》で、隣近所《となりきんじょ》は大迷惑《おおめいわく》だわな」
「生皮《なまかわ》の匂《におい》ってななんだの、お上《かみ》さん」
「おや、親方《おやかた》にゃこの匂《におい》がわからないのかい。このたまらないいやな[#「いやな」に傍点]匂《におい》が。……」
「判《わか》らねえこたァねえが、こいつァおまえ、膠《にかわ》を煮《に》てる匂《におい》だわな」
「冗談《じょうだん》じゃない。そんな生《なま》やさしいもんじゃありゃァしない。お鍋《なべ》を火鉢《ひばち》へかけて、雪駄《せった》の皮《かわ》を煮《に》てるんだよ。今《いま》もうちで、絵師《えし》なんて振《ふ》れ込《こ》みは、大嘘《おおうそ》だって話《はなし》を。……」
 がらッと雨戸《あまど》が開《あ》いて、春重《はるしげ》の辛《から》い顔《かお》がぬッと現《あらわ》れた。
「お早《は》よう」
「お早《は》ようじゃねえや。何《な》んだって松《まつ》つぁんこんな早《はや》くッからやって来《き》たんだ」
「早《はや》えことがあるもんか。お天道様《てんとうさま》は、もうとっくに朝湯《あさゆ》を済《す》まして、あんなに高《たか》く昇《のぼ》ってるじゃねえか。――いってえ重《しげ》さん。おめえ、寝《ね》てえたんだか起《お》きてたんだか、なぜ返事《へんじ》をしてくれねえんだ」
「返事《へんじ》なんざ、しちゃァいられねえよ。――いいからこっちへ這入《はい》ンねえ」
 不機嫌《ふきげん》な春重《はるしげ》の顔《かお》は、桐油《とうゆ》のように強張《こわば》っていた。
「へえってもいいかい」
「帰《かえ》るんなら帰《かえ》ンねえ」
「いやにおどかすの」
「振《ふ》られた朝帰《あさがえ》りなんぞに寄《よ》られちゃ、かなわねえ」
「ふふふ。振《ふ》られてなんざ来《き》ねえよ。それが証拠《しょうこ》にゃ、いい土産《みやげ》を持《も》って来《き》た」
「土産《みやげ》なんざいらねえから、そこを締《し》めたら、もとの通《とお》り、ちゃんと心張棒《しんばりぼう》をかけといてくんねえ」
「重《しげ》さん、おめえまだ寝《ね》るつもりかい」
「いいから、おいらのいった通《とお》りにしてくんねえよ」
 松《まつ》五|郎《ろう》が不承無承《ふしょうぶしょう》に、雨戸《あまど》の心張棒《しんばりぼう》をかうと、九|尺《しゃく》二|間《けん》の家《うち》の中《なか》は再《ふたた》び元通《もとどお》りの夜《よる》の世界《せかい》に変《かわ》って行《い》った。
「上《あが》ンねえ」
 が、松《まつ》五|郎《ろう》は、次第《しだい》に鼻《はな》を衝《つ》いてくる異様《いよう》な匂《におい》に、そのままそこへ佇《たたず》んでしまった。

    四

 行燈《あんどん》はほのかにともっていたものの、日向《ひなた》から這入《はい》って来《き》たばかりの松《まつ》五|郎《ろう》の眼《め》には、家《うち》の中《なか》は真《ま》ッ暗闇《くらやみ》であった。
「松《まつ》つぁん、何《な》んで上《あが》らねえんだ」
「暗《くら》くって、足《あし》もとが見《み》えやしねえ」
「不自由《ふじゆう》な眼《まなこ》だの。そんなこっちゃ、面白《おもしろ》い思《おも》いは出来《でき》ねえぜ」
「重《しげ》さん、おめえ、ずっと起《お》きて何《なに》をしてなすった」
「ふふふ。こっちへ上《あが》りゃァ、直《す》ぐに判《わか》るこッた。――まァこの行燈《あんどん》の傍《そば》へ来《き》て見《み》ねえ」
 漸《ようや》く眼《め》に慣《な》れて来《き》たのであろう。行燈《あんどん》の輪《わ》が次第《しだい》に色《いろ》を濃《こ》くするにつれて、狭《せま》いあたりの有様《ありさま》は、おのずから松《まつ》五|郎《ろう》の前《まえ》にはっきり浮《う》き出《だ》した。
「絵《え》をかいてたんじゃねえのかい」
「絵《え》なんざかいちゃァいねえよ。――おめえにゃ、この匂《におい》がわからねえかの」
「膠《にかわ》だな」
「ふふ、膠《にかわ》は情《なさけ》ねえぜ」
「じゃァやっぱり、牛《うし》の皮《かわ》でも煮《に》てるのか」
「馬鹿《ばか》をいわッし。おいらが何《な》んで、牛《うし》の皮《かわ》に用《よう》があるんだ。もっともこの薬罐《やかん》の傍《そば》へ鼻《はな》を押《お》ッつけて、よく嗅《か》いで見ねえ」
「おいらァ、こんな匂《におい》は真《ま》ァ平《ぴら》だ」
「何《な》んだって。この匂《におい》がかげねえッて。ふふふ。世《よ》の中《なか》にこれ程《ほど》のいい匂《におい》は、またとあるもんじゃねえや、伽羅沈香《きゃらちんこう》だろうが、蘭麝《らんじゃ》だろうが及《およ》びもつかねえ、勿体《もったい》ねえくれえの名香《めいこう》だぜ。――そんな遠《とお》くにいたんじゃ、本当《ほんとう》の香《かお》りは判《わか》らねえから、もっと薬罐《やかん》の傍《そば》に寄《よ》って、鼻《はな》の穴《あな》をおッぴろげて嗅《か》いで見《み》ねえ」
「いってえ、何《なに》を煮《に》てるのよ」
「江戸《えど》はおろか、日本中《にほんじゅう》に二つとねえ代物《しろもの》を煮《に》てるんだ」
「おどかしちゃいけねえ。そんな物《もの》がある訳《わけ》はなかろうぜ」
「なにねえことがあるものか。――それ見《み》ねえ。おめえ、この袋《ふくろ》にゃ覚《おぼ》えがあろう」
 鼻《はな》の先《さき》へ付《つ》き付《つ》けた紅《べに》の糠袋《ぬかぶくろ》は、春重《はるしげ》の手《て》の中《なか》で、珠《たま》のように小《ちい》さく躍《おど》った。
「あッ。そいつを。……」
「どうだ。おせんの爪《つめ》だ。この匂《におい》を嫌《きら》うようじゃ、男《おとこ》に生《うま》れた甲斐《かい》がねえぜ」
「重《しげ》さん。おめえは、よっぽどの変《かわ》り者《もの》だのう」
 松《まつ》五|郎《ろう》は、あらためて春重《はるしげ》の顔《かお》を見守《みまも》った。
「変《かわ》り者《もの》じゃァねえ。そういうおめえの方《ほう》が、変《かわ》ってるんだ。――四|角《かく》四|面《めん》にかしこまっているお武家《ぶけ》でも、男《おとこ》と生《うま》れたからにゃ、女《おんな》の嫌《きら》いな者《もの》ッ、ただの一人《ひとり》もありゃァしめえ。その万人《まんにん》が万人《まんにん》、好《す》きで好《す》きでたまらねえ女《おんな》の、これが本当《ほんとう》の匂《におい》だろうじゃねえか。成《な》る程《ほど》、肌《はだ》の匂《におい》もある。髪《かみ》の匂《におい》もある。乳《ちち》の匂《におい》もあるにァ違《ちげ》えねえ。だが、その数《かず》ある女《おんな》の匂《におい》を、一つにまとめた有難味《ありがたみ》の籠《こも》ったのが、この匂《におい》なんだ。――三|浦屋《うらや》の高尾《たかお》がどれほど綺麗《きれい》だろうが、楊枝見世《ようじみせ》のお藤《ふじ》がどんなに評判《ひょうばん》だろうが、とどのつまりは、みめかたちよりは、女《おんな》の匂《におい》に酔《よ》って客《きゃく》が通《かよ》うという寸法《すんぽう》じゃねえか。――よく聞《き
前へ 次へ
全27ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
邦枝 完二 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング