ま辛抱《しんぼう》して来《き》た苦心《くしん》の宝《たから》だ。――この明《あか》りじゃはっきり見分《みわ》けがつくめえが、よく見《み》ねえ。お大名《だいみょう》のお姫様《ひめさま》の爪《つめ》だって、これ程《ほど》の艶《つや》はあるめえからの」
 三日月《みかづき》なりに切《き》ってある、目《め》にいれたいくらいの小《ちい》さな爪《つめ》を、母指《おやゆび》と中指《なかゆび》の先《さき》で摘《つま》んだまま、ほのかな月光《げっこう》に透《すか》した春重《はるしげ》の面《おもて》には、得意《とくい》の色《いろ》が明々《ありあり》浮《うか》んで、はては傍《そば》に松《まつ》五|郎《ろう》のいることをさえも忘《わす》れた如《ごと》く、独《ひと》り頻《しき》りにうなずいていたが、ふと向《むこ》う臑《ずね》にたかった藪蚊《やぶか》のかゆさに、漸《ようや》くおのれに還《かえ》ったのであろう。突然《とつぜん》平手《ひらて》で臑《すね》をたたくと、くすぐったそうにふふふと笑《わら》った。
「重《しげ》さん、お前《まえ》まったく変《かわ》り者《もの》だの」
「なんでよ」
「考《かんが》えても見《み》ねえ。これが金《きん》の棒《ぼう》を削《けず》った粉《こな》とでもいうンなら、拾《ひろ》いがいもあろうけれど、高《たか》が女《おんな》の爪《つめ》だぜ。一|貫目《かんめ》拾《ひろ》ったところで、※[#「やまいだれ+票」、第3水準1−88−55]疽《ひょうそ》の薬《くすり》になるくれえが、関《せき》の山《やま》だろうじゃねえか。よく師匠《ししょう》も、春重《はるしげ》は変《かわ》り者《もの》だといってなすったが、まさかこれ程《ほど》たァ思《おも》わなかった」
「おいおい松《まっ》つぁん、はっきりしなよ。おいらが変《かわ》り者《もの》じゃァねえ。世間《せけん》の奴《やつ》らが変《かわ》ってるんだ。それが証拠《しょうこ》にゃ。願《がん》にかけておせんの茶屋《ちゃや》へ通《かよ》う客《きゃく》は山程《やまほど》あっても、爪《つめ》を切《き》るおせんのかたちを、一|度《ど》だって見《み》た男《おとこ》は、おそらく一人《ひとり》もなかろうじゃねえか。――そこから生《うま》れたこの爪《つめ》だ」
 一つずつ数《かぞ》えたら、爪《つめ》の数《かず》は、百|個《こ》近《ちか》くもあるであろう。春重《はるしげ》は、もう一|度《ど》糠袋《ぬかぶくろ》を握《にぎ》りしめて、薄気味悪《うすきみわる》くにやり[#「にやり」に傍点]と笑《わら》った。

  朝《あさ》


    一

 ちち、ちち、ちちち。
 行燈《あんどん》はともしたままになっていたが、外《そと》は既《すで》に明《あ》けそめたのであろう。今《いま》まで流《なが》し元《もと》で頻《しき》りに鳴《な》いていた虫《むし》の音《ね》が、絶《た》えがちに細《ほそ》ったのは、雨戸《あまど》から差《さ》す陽《ひ》の光《ひか》りに、おのずと怯《おび》えてしまったに相違《そうい》ない。
 が、虫《むし》の音《ね》の細《ほそ》ったことも、外《そと》が白々《しらじら》と明《あ》けそめて、路地《ろじ》の溝板《どぶいた》を踏《ふ》む人《ひと》の足音《あしおと》が聞《きこ》えはじめたことも、何《なに》もかも知《し》らずに、ただ独《ひと》り、破《やぶ》れ畳《だたみ》の上《うえ》に据《す》えた寺子屋机《てらこやつくえ》の前《まえ》に頑張《がんば》ったまま、手許《てもと》の火鉢《ひばち》に載《の》せた薬罐《やかん》からたぎる湯気《ゆげ》を、千|切《ぎ》れた蟋蟀《こおろぎ》の片脚《かたあし》のように、頬《ほほ》を引《ひ》ッつらせながら、夢中《むちゅう》で吸《す》い続《つづ》けていたのは春重《はるしげ》であった。
 七|軒《けん》長屋《ながや》のまん中《なか》は縁起《えんぎ》がよくないという、人《ひと》のいやがるそんまん中《なか》へ、所帯道具《しょたいどうぐ》といえば、土竈《どがま》と七|輪《りん》と、箸《はし》と茶碗《ちゃわん》に鍋《なべ》が一つ、膳《ぜん》は師匠《ししょう》の春信《はるのぶ》から、縁《ふち》の欠《か》けた根《ね》ごろの猫脚《ねこあし》をもらったのが、せめて道具《どうぐ》らしい顔《かお》をしているくらいが関《せき》の山《やま》。いわばすッてんてんの着《き》のみ着《き》のままで蛆《うじ》が湧《わ》くのも面白《おもしろ》かろうと、男《おとこ》やもめの垢《あか》だらけの体《からだ》を運《はこ》び込《こ》んだのが、去年《きょねん》の暮《くれ》も押《お》し詰《つま》って、引摺《ひきずり》り餅《もち》が向《むこ》ッ鉢巻《ぱちまき》で練《ね》り歩《ある》いていた、廿五|日《にち》の夜《よる》の八つ時《どき》だった。
 ざっと二|年《ねん》。きのうもきょうもない春重《はるしげ》のことながら、二十七のきょうの若《わか》さで、女《おんな》の数《かず》は千|人《にん》近《ちか》くも知《し》り尽《つく》くしたのが自慢《じまん》なだけに、並大抵《なみたいてい》のことでは興味《きょうみ》が湧《わ》かず、師匠《ししょう》の通《とお》りに描《か》く美人画《びじんが》なら、いま直《す》ぐにも描《か》ける器用《きよう》な腕《うで》が却《かえ》って邪間《じゃま》になって、着物《きもの》なんぞ着《き》た女《おんな》を描《か》いても、始《はじ》まらないとの心《こころ》からであろう。自然《しぜん》の風景《ふうけい》を写《うつ》すほかは、画帳《がちょう》は悉《ことごと》く、裸婦《らふ》の像《ぞう》に満《み》たされているという変《かわ》り様《よう》だった。
 二|畳《じょう》に六|畳《じょう》の二|間《ま》は、狭《せま》いようでも道具《どうぐ》がないので、独《ひと》り住居《ずまい》には広《ひろ》かった。そのぐるりの壁《かべ》に貼《は》りめぐらした絵《え》の数《かず》が、一|目《め》で数《かぞ》えて三十|余《あま》り、しかも男《おとこ》と名《な》のつく者《もの》は、半分《はんぶん》も描《か》いてあるのではなく、女《おんな》と、いうよりも、殆《ほとん》ど全部《ぜんぶ》が、おせんの様々《さまざま》な姿態《したい》に尽《つく》されているのも凄《すさ》まじかった。
 その六|畳《じょう》の行燈《あんどん》の下《した》に、机《つくえ》の上《うえ》から投《な》げ出《だ》されたのであろう、腰《こし》の付根《つけね》から下《した》だけを、幾《いく》つともなく描《か》いた紙片《しへん》が、十|枚《まい》近《ちか》くもちらばったのを、時《とき》おりじろりじろりとにらみながら、薬罐《やかん》の湯気《ゆげ》を、鼻《はな》の穴《あな》が開《ひら》きッ放《ぱな》しになる程《ほど》吸《す》い込《こ》んでいた春重《はるしげ》は、ふと、行燈《あんどん》の芯《しん》をかき立《た》てて、薄気味悪《うすきみわる》くニヤリと笑《わら》った。
「ふふふ。わるくねえにおいだ。――世間《せけん》の奴《やつ》らァ智恵《ちえ》なしだから、女《おんな》のにおいは、肌《はだ》からじかでなけりゃ、嗅《か》げねえように思《おも》ってるが、情《なさけ》ねえもんだ。この爪《つめ》が、薬罐《やかん》の中《なか》で煮《に》えくり返《かえ》る甘《あま》い匂《におい》を、一|度《ど》でいいから嗅《か》がしてやりてえくれえのもんだ。紅《べに》やおしろいのにおいなんぞたァ訳《わけ》が違《ちが》って、魂《たましい》が極楽遊《ごくらくあそ》びに出《で》かけるたァこのことだろう。おまけにただの駄爪《だつめ》じゃねえ。笠森《かさもり》おせんの、磨《みが》きのかかった珠《たま》のような爪様《つめさま》だ。――大方《おおかた》松《まつ》五|郎《ろう》の奴《やつ》ァ、今時分《いまじぶん》、やけ[#「やけ」に傍点]で出《で》かけた吉原《よしわら》で、折角《せっかく》拾《ひろ》ったような博打《ばくち》の金《かね》を、手《て》もなく捲揚《まきあ》げられてることだろうが、可哀想《かわいそう》にこうしておせんの脚《あし》を描《か》きながらこの匂《におい》をかいでる気持《きもち》ァ、鯱鉾《しゃちほこ》立《だち》をしたってわかるこッちゃァあるめえて。――ふふふ。もうひと摘《つか》み、新《あたら》しいこいつをいれ、肚《はら》一|杯《ぱい》にかぐとしようか」
 春重《はるしげ》は傍《かたわ》らに置《お》いた紅《べに》の糠袋《ぬかぶくろ》を、如何《いか》にも大切《たいせつ》そうに取上《とりあ》げると、おもむろに口紐《くちひも》を解《と》いて、十ばかりの爪《つめ》を掌《てのひら》にあけたが、そのまま湯《ゆ》のたぎる薬罐《やかん》の中《なか》へ、一つ一つ丁寧《ていねい》につまみ込《こ》んだ。
「ふふふ、こいつァいい匂《におい》だなァ。堪《たま》らねえ匂《におい》だ。――笠森《かさもり》の茶屋《ちゃや》で、おせんを見《み》てよだれを垂《た》らしての野呂間達《のろまたち》に、猪口《ちょこ》半分《はんぶん》でいいから、この湯《ゆ》を飲《の》ましてやりてえ気《き》がする。――」
 どこぞの秋刀魚《さんま》を狙《ねら》った泥棒猫《どろぼうねこ》が、あやまって庇《ひさし》から路地《ろじ》へ落《お》ちたのであろう。突然《とつぜん》雨戸《あまど》を倒《たお》したような大《おお》きな音《おと》が窓下《まどした》に聞《きこ》えたが、それでも薬罐《やかん》の中《なか》に埋《う》められた春重《はるしげ》の長《なが》い顔《かお》はただその眉《まゆ》が阿波人形《あわにんぎょう》のように、大《おお》きく動《うご》いただけで、決《けっ》して横《よこ》には向《む》けられなかった。

    二

「おたき」
「え」
「隣《となり》じゃまた、いつもの病《やまい》が始《はじ》まったらしいぜ。何《なに》しろあの匂《におい》じゃ、臭《くさ》くッてたまらねえな」
「ほんとうに、何《な》んて因果《いんが》な人《ひと》なんだろうね。顔《かお》を見《み》りゃ、十|人《にん》なみの男前《おとこまえ》だし絵《え》も上手《じょうず》だって話《はなし》だけど、してることは、まるッきり並《なみ》の人間《にんげん》と変《かわ》ってるんだからね」
「おめえ。ちょいと隣《となり》へ行《い》って来《き》ねえ」
「何《なに》しにさ」
「夜《よる》のこたァ、こっちが寝《ね》てるうちだから、何《なに》をしても構《かま》わねえが、お天道様《てんとうさま》が、上《あが》ったら、その匂《におい》だけに止《や》めてもらいてえッてよ。仕事《しごと》に行《い》ったって、えたいの知《し》れぬ匂《におい》が、半纏《はんてん》にまでしみ込《こ》んでるんで、外聞《げえぶん》が悪《わる》くッて仕様《しよう》がありやァしねえ」
「女《おんな》じゃ駄目《だめ》だよ。お前《まえ》さん行《い》って、かけ合《あ》って来《き》とくれよ」
「だからね。おいらァ行《い》くな知《し》ってるが、今《いま》もそいった通《とお》り、帳場《ちょうば》へ出《で》かけてからがみっともなくて仕様《しよう》がねえんだ。あんな匂《におい》の中《なか》へ這入《へえ》っちゃいかれねえッてのよ」
「あたしだっていやだよ。まるで焼場《やきば》のような匂《におい》だもの。きのうだって、髪結《かみゆい》のおしげさんがいうじゃァないか。お上《かみ》さんとこへ結《ゆ》いに行《い》くのもいいけれど、お隣《となり》の壁越《かべご》しに伝《つた》わってくる匂《におい》をかぐと、仏臭《ほとけくさ》いような気《き》がしてたまらないから、なるたけこっちへ、出《で》かけて来《き》てもらいたいって。――いったいお前《まえ》さん、あれァ何《なに》を焼《や》く匂《におい》だと思《おも》ってるの」
「分《わか》ってらァな」
「何《な》んだえ」
「奴《やつ》ァ絵《え》かきッて振《ふ》れ込《こ》みだが、嘘《うそ》ッ八だぜ」
「おや、絵《え》かきじゃないのかい」
「そうとも。奴《やつ》ァ雪駄直《せったなお》しだ」
「雪駄直《せったなお》し。―
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