《となりざしき》を気にしながら、更《さら》に声《こえ》を低《ひく》めた。
「怖《こわ》がるこたァねえから、後《あと》ずさりをしねえで、落着《おちつ》いていてくんねえ。おいらァ何《なに》も、久《ひさ》し振《ぶ》りに会《あ》った妹《いもうと》を、取《と》って食《く》おうたァいやァしねえ」
「あかりを、つけさせておくんなさい」
「おっと、そんな事をされちゃァたまらねえ。暗《やみ》でもてえげえ見《み》えるだろうが、おいらァ堅気《かたぎ》の商人《しょうにん》で、四|角《かく》い帯《おび》を、うしろで結《むす》んで来《き》た訳《わけ》じゃねえんだ。面目《めんぼく》ねえが五一三分六《ごいちさぶろく》のやくざ者《もの》だ。おめえやお袋《ふくろ》に、会《あ》わせる顔《かお》はねえンだが、ちっとばかり、人《ひと》に頼《たの》まれたことがあって、義理《ぎり》に挟《はさ》まれてやって来《き》たのよ。おせん、済《す》まねえが、おいらの頼《たの》みを聞《き》いてくんねえ」
「そりゃまた兄《あに》さん、どのようなことでござんす」
「どうのこうのと、話《はな》せば長《なげ》え訳合《わけあい》だが、手《て》ッ取早《とりばや》くいやァ、おいらァ金《かね》が入用《いりよう》なんだ」
「お金《かね》とえ」
「そうだ」
「あたしゃ、お金《かね》なんぞ。……」
「まァ待《ま》った。藪《やぶ》から棒《ぼう》に飛《と》び込《こ》んで来《き》た、おいらの口《くち》からこういったんじゃ、おめえがかぶりを振《ふ》るのももっともだが、こっちもまんざら目算《もくさん》なしで、出《で》かけて来《き》たという訳《わけ》じゃねえ。そこにゃちっとばかり、見《み》かけた蔓《つる》があってのことよ。――のうおせん。おめえは通油町《とおりあぶらちょう》の、橘屋《たちばなや》の若旦那《わかだんな》を知《し》ってるだろう」
「なんとえ」
「徳太郎《とくたろう》という、始末《しまつ》の良《よ》くねえ若旦那《わかだんな》だ」
「さァ、知《し》ってるような、知《し》らないような。……」
「ここァ別《べつ》に白洲《しらす》じゃねえから、隠《かく》しだてにゃ及《およ》ばねえぜ。知《し》らねえといったところが、どうでそれじゃァ通《とお》らねえんだ。先《さき》ァおめえに、家蔵《いえくら》売《う》ってもいとわぬ程《ほど》の、首《くび》ッたけだというじゃねえか」
「まァ兄《にい》さん」
「恥《はず》かしがるにゃァ当《あた》らねえ。何《なに》もこっちから、血道《ちみち》を上《あ》げてるという訳《わけ》じゃなし、おめえに惚《ほ》れてるな、向《むこ》う様《さま》の勝手次第《かってしだい》だ。――おせん。そこでおめえに相談《そうだん》だが、ひとつこっちでも、気《き》のある風《ふう》をしちゃあくれめえか」
「えッ」
「おめえも十八だというじゃァねえか。もうてえげえ、そのくれえの芸当《げいとう》は、出来《でき》ても辱《はじ》にゃァなるめえぜ」
 千|吉《きち》は、たじろぐおせんを見詰《みつ》めながら、四|角《かく》く坐《すわ》って詰《つ》め寄《よ》った。

    七

「もし、兄《あに》さん」
 月《つき》は雲《くも》に覆《おお》われたのであろう。障子《しょうじ》を漏《も》れる光《ひかり》さえない部屋《へや》の中《なか》は、僅《わず》かに隣《となり》から差《さ》す行燈《あんどん》の方影《かたかげ》に、二人《ふたり》の半身《はんしん》を淡《あわ》く見《み》せているばかり、三|年《ねん》振《ぶ》りで向《む》き合《あ》った兄《あに》の顔《かお》も、おせんははっきり見極《みきわ》めることが出来《でき》なかった。
 その方暗《かたやみ》の中《なか》に、おせんの声《こえ》は低くふるえた。
「兄《あに》さん」
「え」
「帰《かえ》っておくんなさい」
「何《な》んだって。おいらに帰《けえ》れッて」
「あい」
「冗談《じょうだん》じゃねえ。用《よう》がありゃこそ、わざわざやって来《き》たんだ。なんでこのまま帰《けえ》れるものか。そんなことよりおいらの頼《たの》みを、素直《すなお》にきいてもらおうじゃねえか。おめえさえ首《くび》を縦《たて》に振《ふ》ってくれりゃァ、からきし訳《わけ》はねえことなんだ。のうおせん。赤《あか》の他人《たにん》でさえ、事《こと》を分《わ》けて、かくかくの次第《しだい》と頼《たの》まれりゃ、いやとばかりゃァいえなかろう。おいらァおめえの兄貴《あにき》だよ。――血《ち》を分《わ》けた、たった一人《ひとり》の兄貴《あにき》だよ。それも、百とまとまった金《かね》が入用《いりよう》だという訳《わけ》じゃねえ。四|半分《はんぶん》の二十五|両《りょう》で事《こと》が済《す》むんだ」
「二十五|両《りょう》。――」
「みっともねえ。驚《おどろ》く程《ほど》の高《たか》でもあるめえ」
「でも、そんなお金《かね》は。……」
「だからよ。初手《しょて》からいってる通《とお》り、おめえやお袋《ふくろ》の臍《へそ》くりから、引《ひ》っ張《ぱ》り出《だ》そうたァいやァしねえや。狙《ねら》いをつけたなあの若旦那《わかだんな》、橘屋《たちばなや》の徳太郎《とくたろう》というでくの棒《ぼう》よ。ふふふふ。何《な》んの雑作《ぞうさ》もありァしねえ。おめえがここでたった一言《ひとこと》。おなつかしゅうござんす、とかなんとかいってくれさえすりァ、おいらの頼《たの》みァ聴《き》いてもらえようッてんだ。お釈迦《しゃか》が甘茶《あまちゃ》で眼病《めやみ》を直《なお》すより、もっとわけねえ仕事《しごと》じゃねえか」
「それでもあたしゃ。心《こころ》にもないことをいって。……」
「そ、その料簡《りょうけん》がいけねえんだ。腹《はら》にあろうがなかろうが、武士《ぶし》は戦略《せんりゃく》、坊主《ぼうず》は方便《ほうべん》、時《とき》と場合《ばあい》じゃ、人《ひと》の寝首《ねくび》をかくことさえあろうじゃねえか。――さ、ここに筆《ふで》と紙《かみ》がある。いろはのいの字《じ》とろの字《じ》を書《か》いて、いろよい返事《へんじ》をしてやんねえ」
 千|吉《きち》がふところから取出《とりだ》したのは、巻紙《まきがみ》と矢立《やたて》であった。
 おせんは、あわてて手《て》を引《ひ》ッ込《こ》めた。
「堪忍《かんにん》しておくんなさい」
「何《なに》もあやまるこたァありゃァしねえ。暗《くら》くッて書《か》けねえというンなら、仕方《しかた》がねえ。行燈《あんどん》をつけてやる」
「もし。――」
 今度《こんど》はおせんが、千|吉《きち》の手《て》をおさえた。
「何《なに》をするんだ」
「あたしゃ、どうでもいやでござんす」
「そんならこれ程《ほど》までに、頭《あたま》をさげて頼《たの》んでもか」
「外《ほか》のこととは訳《わけ》が違《ちが》い、あたしゃ数《かず》あるお客《きゃく》のうちでも、いの一|番《ばん》に嫌《きら》いなお人《ひと》、たとえ嘘《うそ》でも冗談《じょうだん》でも、気《き》の済《す》まないことはいやでござんす」
「おせん。おめえ、兄貴《あにき》を見殺《みごろ》しにするつもりか」
「何《な》んとえ」
「おめえがいやだとかぶりを振《ふ》りゃァ、おいらは人《ひと》から預《あず》かった、大事《だいじ》な金《かね》を落《お》としたかどで、いやでも明日《あした》は棒縛《ぼうしば》りだ。――そいつもよかろう。おめえはかげで笑《わら》っていねえ」
「兄《あに》さん」
「もう何《な》んにも頼《たの》まねえ。これから帰《けえ》って縛《しば》られようよ」
 千|吉《きち》は、わざとやけに立上《たちあが》って窓辺《まどべ》へつかつかと歩《あゆ》み寄《よ》った。
 突然《とつぜん》隣座敷《となりざしき》から、お岸《きし》のすすり泣《な》く声《こえ》が、障子越《しょうじご》しに聞《きこ》えて来《き》た。

  文《ふみ》


    一

「若旦那《わかだんな》、もし、油町《あぶらちょう》の若旦那《わかだんな》」
「おお、お前《まえ》は千|吉《きち》つぁん」
「そんなに急《いそ》いで、どこへおいでなせえやす」
「お前《まえ》のとこさ」
「何、あっしンとこでげすッて。――あっしンとこなんざ、若旦那《わかだんな》においでを願《ねが》うような、そんな気《き》の利《き》いた住居《すまい》じゃござんせん。火口箱《ほくちばこ》みてえな、ちっぽけな棟割長屋《むねわりながや》なんで。……」
「小《ちい》さかろうが、大《おお》きかろうが、そんなことは考《かんが》えちゃいられないよ」
「何《な》んと仰《おっ》しゃいます」
「あたしゃお前《まえ》に頼《たの》んだ返事《へんじ》を、聞《き》かせてもらいに、往《ゆ》くところじゃないか」
「はッはッは。それでわざわざお運《はこ》び下《くだ》さろうッてんでげすか。これぁどうも恐《おそ》れいりやした。そのことなら、どうかもう御心配《ごしんぱい》は、御無用《ごむよう》になすっておくんなさいまし」
「おお、そんなら千|吉《きち》さん、おせんの返事《へんじ》を。――」
「憚《はばか》りながら、いったんお引《ひき》受《う》け申《もう》しやした正直《しょうじき》千|吉《きち》、お約束《やくそく》を違《たが》えるようなこたァいたしやせん」
「済《す》まない。あたしはそうとは思《おも》っていたものの、これがやっぱり恋心《こいごころ》か。ちっとも速《はや》く返事《へんじ》が聞《き》き度《た》くて、帳場格子《ちょうばこうし》と二|階《かい》の間《あいだ》を、九十九|度《ど》も通《かよ》った挙句《あげく》、とうとう辛抱《しんぼう》が出来《でき》なくなったばっかりに、ここまで出向《でむ》いて来《き》た始末《しまつ》さ。そうと極《きま》ったら、どうか直《す》ぐに色《いろ》よい返事《へんじ》を聞《き》かせておくれ」
「ま、ま、待《ま》っておくんなせえやし。そんなにお急《せき》ンならねえでも、おせんの返事《へんじ》は、直《す》ぐさまお聞《き》かせ申《もう》しやすが、ここは道端《みちばた》、誰《だれ》に見《み》られねえとも限《かぎ》りやせん。筋《すじ》の通《とお》ったいい所《ところ》で、ゆっくりお目《め》にかけようじゃござんせんか」
「そりゃもう、いずれおまんま[#「おまんま」に傍点]でも食《た》べながら、ゆっくり見《み》せてもらおうが、まず文《ふみ》の上書《うわがき》だけでも、ここでちょいと、のぞかせておくれでないか」
「御安心《ごあんしん》くださいまし。上書《うわがき》なんざ二の次《つぎ》三の次《つぎ》、中味《なかみ》から封《ふう》じ目《め》まで、おせんの手《て》に相違《そうい》はございません。あいつァ七八つの時分《じぶん》から、手習《てならい》ッ子《こ》の仲間《なかま》でも、一といって二と下《さが》ったことのねえ手筋自慢《てすじじまん》。あっしゃァ質屋《しちや》の質《しち》の字《じ》と、万金丹《まんきんたん》の丹《たん》の字《じ》だけしきゃ書《か》けやせんが、おせんは若旦那《わかだんな》のお名前《なまえ》まで、ちゃァんと四|角《かく》い字《じ》で書《か》けようという、水茶屋女《みずぢゃやおんな》にゃ惜《お》しいくらいの立派《りっぱ》な手書《てが》き。――この通《とお》り、あっしがふところに預《あず》かっておりやすから、どうか親船《おやぶね》に乗《の》った気《き》で、おいでなすっておくんなせえやし」
「安心《あんしん》はしているけれど、ちっとも速《はや》く見《み》たいのが人情《にんじょう》じゃないか。野暮《やぼ》をいわずに、ちょいとでいいから、ここでお見《み》せよ」
「堪忍《かんにん》しておくんなさい。道《みち》ッ端《ぱた》ではお目《め》にかけねえようにと、こいつァ妹《いもうと》からの、堅《かた》い頼《たの》みでござんすので。……」
「はてまァ、何《な》んという野暮《やぼ》だろうのう」
「どうか察《さっ》しておやンなすって。おせんにして見《み》りゃ、自分《じぶん》から文《ふみ》を書《
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