しゃまた、悪《わる》いいたずらでもされたかと思《おも》って、びっくりしたじゃァないか。何《なに》も食《く》いつくような黒《くろ》じゃなし、逃《に》げてなんぞ来《こ》ないでも、大丈夫《だいじょうぶ》金《かね》の脇差《わきざし》だわな。――こっちへおいで。頭《あたま》を撫《な》で付《つ》けてあげようから。……」
「おや、髪《かみ》がそんなに。――」
母《はは》の方《ほう》へは行《い》かずに、四|畳半《じょうはん》のおのが居間《いま》へ這入《はい》ったおせんは、直《す》ぐさま鏡《かがみ》の蓋《ふた》を外《はず》して、薄暮《はくぼ》の中《なか》にじっとそのまま見入《みい》ったが、二|筋《すじ》三|筋《すじ》襟《えり》に乱《みだ》れた鬢《びん》の毛《け》を、手早《てばや》く掻《か》き揚《あ》げてしまうと、今度《こんど》はあらためて、あたりをぐるりと見廻《みまわ》した。
「お母《っか》さん」
「あいよ」
「あたしの留守《るす》に、ここに誰《だれ》か這入《はい》りゃしなかったかしら」
「おやまァ滅相《めっそう》な。そこへは鼠《ねずみ》一|匹《ぴき》も滅多《めった》に入《はい》るこっちゃァないよ。――何《な》んぞ変《かわ》わったことでもおありかえ」
「さァ、ちっとばかり。……」
「どれ、何《なに》がの。――」
障子《しょうじ》の隙間《すきま》から、顔《かお》を半分《はんぶん》窺《のぞ》かせた母親《ははおや》を、おせんはあわてて遮《さえぎ》った。
「気《き》にする程《ほど》でもござんせぬ。あっちへ行《い》ってておくんなさい」
「ほんにまァ、ここへは来《く》るのじゃなかったッけ」
三日前《みっかまえ》の夜《よる》の四つ頃《ごろ》、浜町《はまちょう》からの使《つか》いといって、十六七の男《おとこ》の子《こ》が、駕籠《かご》に乗《の》った女《おんな》を送《おく》って来《き》たその晩《ばん》以来《いらい》、お岸《きし》はおせんの口《くち》から、観音様《かんのんさま》への願《がん》かけゆえ、向《むこ》う三十|日《にち》の間《あいだ》何事《なにごと》があっても、四|畳半《じょうはん》へは這入《はい》っておくんなさいますな。あたしの留守《るす》にも、ここへ足《あし》を入《い》れたが最後《さいご》、お母《っか》さんの眼《め》はつぶれましょうと、きつくいわれたそれからこっち、何《なに》が何《なに》やら分《わか》らないままに、おせんの頼《たの》みを堅《かた》く守《まも》って、お岸《きし》は、鬼門《きもん》へ触《さわ》るように恐《おそ》れていた座敷《ざしき》だったが、留守《るす》に誰《だれ》かが這入《はい》ったと聞《き》いては、流石《さすが》にあわてずにいられなかったらしく、拵《こし》らえかけの蜆汁《しじみじる》を、七|厘《りん》へ懸《か》けッ放《ぱな》しにしたまま、片眼《かため》でいきなり窺《のぞ》き込《こ》んだのであろう。
部屋《へや》の中《なか》は、窓《まど》から差《さ》すほのかな月《つき》の光《ひかり》で、漸《ようや》く物《もの》のけじめがつきはするものの、ともすれば、入《い》れ換《か》えたばかりの青畳《あおだたみ》の上《うえ》にさえ、暗《くら》い影《かげ》が斜《なな》めに曳《ひ》かれて、じっと見詰《みつ》めている眼先《めさき》は、海《うみ》のように深《ふか》かった。
母《はは》は直《す》ぐに勝手《かって》へ取《と》って返《かえ》したと見《み》えて、再《ふたた》び七|厘《りん》の下《した》を煽《あお》ぐ渋団扇《しぶうちわ》の音《おと》が乱《みだ》れた。
暗《くら》い、何者《なにもの》もはっきり見《み》えない部屋《へや》の中《なか》で、おせんはもう一|度《ど》、じっと鏡《かがみ》の中《なか》を見詰《みつ》めた。底光《そこびかり》のする鏡《かがみ》の中《なか》に、澄《す》めば澄《す》む程《ほど》ほのかになってゆく、おのが顔《かお》が次第《しだい》に淡《あわ》く消《き》えて、三日月形《みかづきがた》の自慢《じまん》の眉《まゆ》も、いつか糸《いと》のように細《ほそ》くうずもれて行《い》った。
「吉《きち》ちゃん。――」
ふと、鏡《かがみ》のおもてから眼《め》を放《はな》したおせんの唇《くちびる》は、小《ちい》さく綻《ほころ》びた。と同時《どうじ》に、すり寄《よ》るように、体《からだ》は戸棚《とだな》の前《まえ》へ近寄《ちかよ》った。
「済《す》みません。ひとりぽっちで、こんなに待《ま》たせて。――」
そういいながら、おせんのふるえる手《て》は襖《ふすま》の引手《ひきて》を押《おさ》えた。
五
部屋《へや》の中《なか》は益々《ますます》暗《くら》かった。
その暗《くら》い部屋《へや》の片隅《かたすみ》へ、今《いま》しもおせんが、辺《あたり》に気《き》を配《くば》りながら、胸《むね》一|杯《ぱい》に抱《かか》え出《だ》したのは、つい三日前《みっかまえ》の夜《よる》、由斎《ゆうさい》の許《もと》から駕籠《かご》に乗《の》せて届《とど》けてよこした、八百|屋《や》お七の舞台姿《ぶたいすがた》をそのままの、瀬川菊之丞《せがわきくのじょう》の生人形《いきにんぎょう》であった。
おせんは抱《かか》えた人形《にんぎょう》を、東《ひがし》に向《む》けて座敷《ざしき》のまん中《なか》に立《た》てると、薄月《うすづき》の光《ひかり》を、まともに受《う》けさせようがためであろう。音《おと》せぬ程《ほど》に、窓《まど》の障子《しょうじ》を徐《しずか》に開《あ》け始《はじ》めた。
庭《にわ》には虫《むし》の声《こえ》もなく、遠《とお》くの空《そら》を渡《わた》る雁《かり》のおとずれがうつろのように、耳《みみ》に響《ひび》いた。
「吉《きち》ちゃん。――いいえ、太夫《たゆう》、あたしゃ会《あ》いとうござんした」
生《い》きた相手《あいて》にいう如《ごと》く、如何《いか》にもなつかしそうに、人形《にんぎょう》を仰《あお》いだおせんの眼《め》には、情《なさけ》の露《つゆ》さえ仇《あだ》に宿《やど》って、思《おも》いなしか、声《こえ》は一|途《ず》にふるえていた。
「――朝《あさ》から晩《ばん》まで、いいえ、それよりも、一|生涯《しょうがい》、あたしゃ太夫《たゆう》と一|緒《しょ》にいとうござんすが、なんといっても、お前《まえ》は今《いま》を時《とき》めく、江戸《えど》一|番《ばん》の女形《おやま》。それに引《ひ》き換《か》えあたしゃそこらに履《は》き捨《す》てた、切《き》れた草鞋《わらじ》もおんなじような、水茶屋《みずぢゃや》の茶汲《ちゃく》み娘《むすめ》。百夜《ももよ》の路《みち》を通《かよ》ったとて、お前《まえ》に逢《あ》って、昔話《むかしばなし》もかなうまい。それゆえせめての心《こころ》から、あたしがいつも夢《ゆめ》に見《み》るお前《まえ》のお七を、由斎《ゆうさい》さんに仕上《しあ》げてもらって、ここまで内緒《ないしょ》で運《はこ》んだ始末《しまつ》。お前《まえ》のお宅《たく》にくらべたら、物置小屋《ものおきごや》にも足《た》りない住居《すまい》でござんすが、ここばっかりは、邪間《じゃま》する者《もの》もない二人《ふたり》の世界《せかい》。どうぞ辛抱《しんぼう》して、話相手《はなしあいて》になっておくんなさいまし、――あたしゃ、王子《おうじ》で育《そだ》った十|年前《ねんまえ》も、お見世《みせ》へ通《かよ》うきょうこの頃《ごろ》も、心《こころ》に毛筋程《けすじほど》の変《かわ》りはござんせぬ。吉《きち》ちゃんと、おせんちゃんとは夫婦《ふうふ》だと、ままごと遊《あそ》びにからかわれた、あの春《はる》の日《ひ》が忘《わす》れられず、枕《まくら》を濡《ぬ》らして泣《な》き明《あ》かした夜《よる》も、一|度《ど》や二|度《ど》ではござんせんし。おせんも年頃《としごろ》、好《す》きなお客《きゃく》の一人《ひとり》くらいはあろうかと、折節《おりふし》のお母《っか》さんの心配《しんぱい》も、あたしの耳《みみ》には上《うわ》の空《そら》。火《ひ》あぶりで死《し》んだお七が羨《うらや》ましいと、あたしゃいつも、思《おもい》い続《つづ》けてまいりました。――太夫《たゆう》、お前《まえ》は、立派《りっぱ》なお上《かみ》さんのその外《ほか》に、二つも寮《りょう》をお持《も》ちの様子《ようす》。引《ひ》くてあまたの、御贔屓筋《ごひいきすじ》もござんしょうが、あたしゃこのままこがれ死《し》んでも、やっぱりお前《まえ》の女房《にょうぼう》でござんす」
思《おも》わず知《し》らず、我《わ》れとわが袖《そで》を濡《ぬ》らした不覚《ふかく》の涙《なみだ》に、おせんは「はッ」として首《くび》を上《あ》げたが、どうやら勝手許《かってもと》の母《はは》の耳《みみ》へは這入《はい》らなかったものか、まだ抜《ぬ》け切《き》らぬ風邪《かぜ》の咳《せき》が二つ三つ、続《つづ》けざまに聞《き》こえたばかりであった。
しばしおせんは、俯向《うつむ》いたまま眼《め》を閉《と》じていた。その眼《め》の底《そこ》を、稲妻《いなづま》のように、幼《おさな》い日《ひ》の思《おも》い出《で》が突《つ》ッ走《ぱし》った。
「おせんや」
母《はは》の声《こえ》が聞《き》かれた。
「あい」
「この暗《くら》いのに、行燈《あんどん》もつけずに」
「あい。さして暗《くら》くはござんせぬ」
「何《なに》をしておいでだか知《し》らないが、支度《したく》が出来《でき》たから御飯《ごはん》にしようわな」
「あい、いまじきに」
「暗《くら》い所《ところ》に一人《ひとり》でいると、鼠《ねずみ》に引《ひ》かれるよ」
隣座敷《となりざしき》では、母《はは》が燈芯《とうしん》をかき立《た》てたのであろう。障子《しょうじ》が急《きゅう》に明《あか》るくなって、膳立《ぜんだて》をする音《おと》が耳《みみ》に近《ちか》かった。
よろめくように立上《たちあが》ったおせんは、窓《まど》の障子《しょうじ》に手《て》をかけた。と、その刹那《せつな》、低《ひく》いしかも聞《き》き慣《な》れない声《こえ》が、窓《まど》の下《した》から浮《う》き上《あが》った。
「おせん」
「えッ」
「驚《おどろ》くにゃ当《あた》らねえ。おいらだよ」
おせんは、火箸《ひばし》のように立《た》ちすくんでしまった。
六
「ど、どなたでござんす」
「叱《し》っ、静《しず》かにしねえ。怪《あや》しいものじゃねえよ。おいらだよ」
「あッ、お前《まえ》は兄《あに》さん。――」
「ええもう、静《しず》かにしろというのに。お袋《ふくろ》の耳《みみ》へへえッたら、事《こと》が面倒《めんどう》ンなる」
そういいながら、出窓《でまど》の縁《えん》へ肘《ひじ》を懸《か》けて、するりと体《からだ》を持《もち》ちあげると、如何《いか》にも器用《きよう》に履《は》いた草履《ぞうり》を右手《みぎて》で脱《ぬ》ぎながら、腰《こし》の三|尺帯《じゃくおび》へはさんで、猫《ねこ》のように青畳《あおだたみ》の上《うえ》へ降《お》り立《た》ったのは、三|年前《ねんまえ》に家《いえ》を出《で》たまま、噂《うわさ》にさえ居所《いどころ》を知《し》らせなかった兄《あに》の千|吉《きち》だった。――藍微塵《あいみじん》の素袷《すあわせ》に算盤玉《そろばんだま》の三|尺《じゃく》は、見《み》るから堅気《かたぎ》の着付《きつけ》ではなく、殊《こと》に取《と》った頬冠《ほおかむ》りの手拭《てぬぐい》を、鷲掴《わしづか》みにしたかたちには、憎《にく》いまでの落着《おちつき》があった。
まったく夢想《むそう》もしなかった出来事《できごと》に、おせんは、その場《ば》に腰《こし》を据《す》えたまま、直《す》ぐには二の句《く》が次《つ》げなかった。
「おせん。おめえ、いくつンなった」
「十八でござんす」
「十八か。――」
千|吉《きち》はそういって苦笑《くしょう》するように頷《うなず》いたが、隣座敷
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