、文字太夫《もじだゆう》も跣足《はだし》だて」
「それはもう御隠居様《ごいんきょさま》。滅法《めっぽう》名代《なだい》の土平《どへい》でござんす。これ程《ほど》のいい声《こえ》は、鉦《かね》と太鼓《たいこ》で探《さが》しても、滅多《めった》にあるものではござんせぬ」
「御隠居《ごいんきょ》は、土平《どへい》の声《こえ》を、始《はじ》めてお聞《き》きなすったのかい」
「左様《さよう》」
「これはまた迂濶《うかつ》千|万《ばん》。飴売《あめうり》土平《どへい》は、近頃《ちかごろ》江戸《えど》の名物《めいぶつ》でげすぜ」
「いや、噂《うわさ》はかねて聞《き》いておったが、眼《め》で見《み》たのは今《いま》が初《はじ》めて。まことにはや。面目次第《めんぼくしだい》もござりませぬて」
「はははは。お前様《まえさま》は、おなじ名代《なだい》なら、やっぱりおせんの方《ほう》が、御贔屓《ごひいき》でげしょう」
「決《けっ》して左様《さよう》な訳《わけ》では。……」
「お隠《かく》しなさいますな。それ、そのお顔《かお》に書《か》いてある」
見物《けんぶつ》の一人《ひとり》が、近《ちか》くにいる隠居《いんきょ》の顔《かお》を指《さ》した時《とき》だった、誰《だれ》かが突然《とつぜん》頓狂《とんきょう》な声《こえ》を張《は》り上《あ》げた。
「おせんが来《き》た。あすこへおせんが帰《かえ》って来《き》た」
二
「なに、おせんだと」
「どこへどこへ」
飴売《あめうり》土平《どへい》の道化《どうけ》た身振《みぶ》りに、われを忘《わす》れて見入《みい》っていた人達《ひとたち》は、降《ふ》って湧《わ》いたような「おせんが来《き》た」という声《こえ》を聞《き》くと、一|齊《せい》に首《くび》を東《ひがし》へ振《ふ》り向《む》けた。
「どこだの」
「あすこだ。あの松《まつ》の木《き》の下《した》へ来《く》る」
斜《なな》めにうねった道角《みちかど》に、二抱《ふたかか》えもある大松《おおまつ》の、その木《き》の下《した》をただ一人《ひとり》、次第《しだい》に冴《さ》えた夕月《ゆうづき》の光《ひかり》を浴《あ》びながら、野中《のなか》に咲《さ》いた一|本《ぽん》の白菊《しらぎく》のように、静《しず》かに歩《あゆ》みを運《はこ》んで来《く》るほのかな姿《すがた》。それはまごう方《かた》ない見世《みせ》から帰《かえ》りのおせんであった。
「違《ちげ》えねえ。たしかにおせんだ」
「そら行《い》け」
駆《か》け出《だ》す途端《とたん》に鼻緒《はなお》が切《き》れて、草履《ぞうり》をさげたまま駆《か》け出《だ》す小僧《こぞう》や、石《いし》に躓《つまず》いてもんどり打《う》って倒《たお》れる職人《しょくにん》。さては近所《きんじょ》の生臭坊主《なまぐさぼうず》が、俗人《ぞくじん》そこのけに目尻《めじり》をさげて追《お》いすがるていたらく。所詮《しょせん》は男《おとこ》も女《おんな》もなく、おせんに取《と》っては迷惑千万《めいわくせんばん》に違《ちが》いなかろうが、遠慮会釈《えんりょえしゃく》はからりと棄《す》てた厚《あつ》かましさからつるんだ犬《いぬ》を見《み》に行《ゆ》くよりも、一|層《そう》勢《きお》い立《た》って、どっとばかりに押《お》し寄《よ》せた。
「いやだよ直《なお》さん、そんなに押《お》しちゃァ転《ころ》ンじまうよ」
「人《ひと》の転《ころ》ぶことなんぞ、遠慮《えんりょ》してたまるもんかい。速《はや》く行《い》って触《さわ》らねえことにゃ、おせんちゃんは帰《かえ》ッちまわァ」
「おッと退《ど》いた退《ど》いた。番太郎《ばんたろう》なんぞの見《み》るもンじゃねえ」
「馬鹿《ばか》にしなさんな。番太郎《ばんたろう》でも男《おとこ》一|匹《ぴき》だ。綺麗《きれい》な姐《ねえ》さんは見《み》てえや」
「さァ退《ど》いた、退《ど》いた」
「火事《かじ》だ火事《かじ》だ」
人《ひと》の心《こころ》が心《こころ》に乗《の》って、愈《いよいよ》調子《ちょうし》づいたのであろう。茶代《ちゃだい》いらずのその上《うえ》にどさくさまぎれの有難《ありがた》さは、たとえ指先《ゆびさき》へでも触《さわ》れば触《さわ》り得《どく》と考《かんが》えての悪戯《いたずら》か。ここぞとばかり、息《いき》せき切《き》って駆《か》け着《つ》けた群衆《ぐんしゅう》を苦笑《くしょう》のうちに見守《みまも》っていたのは、飴売《あめうり》の土平《どへい》だった。
「ふふふふ。飴《あめ》も買《か》わずに、おせん坊《ぼう》へ突《つ》ッ走《ぱし》ったな豪勢《ごうせい》だ。こんな鉄錆《てつさび》のような顔《かお》をしたおいらより、油壺《あぶらつぼ》から出《で》たよなおせん坊《ぼう》の方《ほう》が、どれだけいいか知《し》れねえからの。いやもう、浮世《うきよ》のことは、何《なに》をおいても女《おんな》が大事《だいじ》。おいらも今度《こんど》の世《よ》にゃァ、犬《いぬ》になっても女《おんな》に生《うま》れて来《く》ることだ。――はッくしょい。これァいけねえ。みんなが急《きゅう》に散《ち》ったせいか、水《みず》ッ洟《ぱな》が出《で》て来《き》たぜ。風邪《かぜ》でも引《ひ》いちゃァたまらねから、そろそろ帰《かえ》るとしべえかの」
「おッと、飴屋《あめや》さん」
「はいはい、お前《まえ》さんは、何《な》んであっちへ行《い》きなさらない」
「行《い》きたくねえからよ」
「行《い》きたくないとの」
「そうだ。おいらはこれでも、辱《はじ》を知《し》ってるからの」
「面白《おもしろ》い。人間《にんげん》、辱《はじ》を知《し》ってるたァ何《なに》よりだ」
「何《なに》より小《こ》より[#「より」に傍点]御存《ごぞん》じよりか。なまじ辱《はじ》を知《し》ってるばかりに、おいらァ出世《しゅっせ》が出来《でき》ねえんだよ」
「お前《まえ》さんは、何《なに》をしなさる御家業《おかぎょう》だの」
「絵《え》かきだよ」
「名前《なまえ》は」
「名前《なまえ》なんざあるもんか」
「誰《だれ》のお弟子《でし》だの」
「おいらはおいらの弟子《でし》よ。絵《え》かきに師匠《ししょう》や先生《せんせい》なんざ、足手《あしで》まといになるばッかりで、物《もの》の役《やく》にゃ立《た》たねえわな」
そういいながら、鼻《はな》の頭《あたま》を擦《こす》ったのは、変《かわ》り者《もの》の春重《はるしげ》だった。
三
「おッとッとッと、おせんちゃん。何《な》んでそんなに急《いそ》ぎなさるんだ。みんながこれ程《ほど》騒《さわ》いでるんだぜ。靨《えくぼ》の一つも見《み》せてッてくんねえな」
「そうだそうだ。どんなに待《ま》ったか知《し》れやァしねえよ。おめえに急《いそ》いで帰《かえ》られたんじゃ、待《ま》ってたかいがありゃァしねえ」
それと知《し》って、おせんを途中《とちゅう》に押《お》ッ取《と》りかこんだ多勢《おおぜい》は、飴屋《あめや》の土平《どへい》があっ気《け》に取《と》られていることなんぞ、疾《と》うの昔《むかし》に忘《わす》れたように、我《わ》れ先《さき》にと、夕《ゆう》ぐれ時《どき》のあたりの暗《くら》さを幸《さいわ》いにして、鼻《はな》から先《さき》へ突出《つきだ》していた。
が、いつもなら、人《ひと》にいわれるまでもなく、まずこっちから愛嬌《あいきょう》を見《み》せるにきまっていたおせんが、きょうは何《な》んとしたのであろう。靨《えくぼ》を見《み》せないのはまだしも、まるで別人《べつじん》のようにせかせかと、先《さき》を急《いそ》いでの素気《すげ》ない素振《そぶり》に、一|同《どう》も流石《さすが》におせんの前《まえ》へ、大手《おおで》をひろげる勇気《ゆうき》もないらしく、ただ口《くち》だけを達者《たっしゃ》に動《うご》かして、少《すこ》しでも余計《よけい》に引止《ひきと》めようと、あせるばかりであった。
「もし、そこを退《ど》いておくんなさいな」
「どいたらおめえが帰《かえ》ッちまうだろう。まァいいから、ここで遊《あそ》んで行《ゆ》きねえ」
「あたしゃ、先《さき》を急《いそ》ぎます。きょうは堪忍《かんにん》しておくんなさいよ」
「先《さき》ッたって、これから先《さき》ァ、家《うち》へ帰《かえ》るより道《みち》はあるめえ。それともどこぞへ、好《す》きな人《ひと》でも出来《でき》たのかい」
「なんでそんなことが。……」
「ねえンなら、よかろうじゃねえか」
「でもお母《っか》さんが。――」
「お袋《ふくろ》の顔《かお》なんざ、生《うま》れた時《とき》から見《み》てるんだろう。もう大概《たいがい》、見《み》あきてもよさそうなもんだぜ」
「そうだ、おせんちゃん。帰《けえ》る時《とき》にゃ、みんなで送《おく》ってッてやろうから、きょう一《いち》ン日《ち》の見世《みせ》の話《はなし》でも、聞《き》かしてくんねえよ」
「お見世《みせ》のことなんぞ、何《な》んにも話《はなし》はござんせぬ。――どうか通《とお》しておくんなさい」
「紙屋《かみや》の若旦那《わかだんな》の話《はなし》でも、名主《なぬし》さんのじゃんこ[#「じゃんこ」に傍点]息子《むすこ》の話《はなし》でも、いくらもあろうというもんじゃねえか」
「知《し》りませんよ。お母《っか》さんが風邪《かぜ》を引《ひ》いて、独《ひと》りで寝《ね》ててござんすから、ちっとも速《はや》く帰《かえ》らないと、あたしゃ心配《しんぱい》でなりませんのさ」
「お袋《ふくろ》さんが風邪《かぜ》だッて」
「あい」
「そいつァいけねえ。何《な》んなら見舞《みまい》に行《い》ってやるよ」
「おいらも行《い》くぜ」
「わたしも行《い》く」
「いいえ、もうそんなことは。――」
少《すこ》しも長《なが》く、おせんを引《ひ》き止《と》めておきたい人情《にんじょう》が、互《たがい》の口《くち》を益々《ますます》軽《かる》くして、まるく囲《かこ》んだ人垣《ひとがき》は、容易《ようい》に解《と》けそうにもなかった。
すると突然《とつぜん》、はッはッはと、腹《はら》の底《そこ》から絞《しぼ》り出《だ》したような笑《わら》い声《ごえ》が、一|同《どう》の耳許《みみもと》に湧《わ》き立《た》った、
「はッはッは。みんな、みっともねえ真似《まね》をしねえで、速《はや》くおせんちゃんを、帰《かえ》してやったらどんなもんだ」
「おめえは、春重《はるしげ》だな」
「つまらねえ差《さ》し出口《でぐち》はきかねえで、引《ひ》ッ込《こ》んだ、引《ひ》ッ込《こ》んだ」
「ふふふ。おめえ達《たち》、あんまり気《き》が利《き》かな過《す》ぎるぜ。おせんちゃんにゃ、おせんちゃんの用《よう》があるんだ。野暮《やぼ》な止《と》めだてするよりも、一|刻《こく》も速《はや》く帰《かえ》してやんねえ」
「馬鹿《ばか》ァいわッし。そんなお接介《せっかい》は受けねえよ」
一|同《どう》の視線《しせん》が、春重《はるしげ》の上《うえ》に集《あつ》まっている暇《ひま》に、おせんは早《はや》くも月《つき》の下影《したかげ》に身《み》を隠《かく》した。
四
「お母《っか》さん」
「おや、おせんかえ」
「あい」
猫《ねこ》に追《お》われた鼠《ねずみ》のように、慌《あわただ》しく駆《か》け込《こ》んで来《き》たおせんの声《こえ》に、折《おり》から夕餉《ゆうげ》の支度《したく》を急《いそ》いでいた母《はは》のお岸《きし》は、何《なに》やら胸《むね》に凶事《きょうじ》を浮《うか》べて、勝手《かって》の障子《しょうじ》をがらりと明《あ》けた。
「どうかおしかえ」
「いいえ」
「でもお前《まえ》、そんなに息《いき》せき切《き》ってさ」
「どうもしやァしませんけれど、いまそこで、筆屋《ふでや》さんの黒《くろ》がじゃれたもんだから。……」
「ほほほほ。黒《くろ》が尾《お》を振《ふ》ってじゃれるのは、お前《まえ》を慕《した》っているからだよ。あた
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