描《か》いたものにゃ違《ちが》いないが、まだ向《むこ》うの手《て》へ渡《わた》さないうちに、太夫《たゆう》が来《き》て、貸《か》してくれとのたッての頼《たの》み、これがなくては、肝腎《かんじん》の芝居《しばい》が出来《でき》ないとまでいった挙句《あげく》、いや応《おう》なしに持《も》って行《い》かれてしまったものだ。おせんにゃもとより、内所《ないしょ》で貸《か》して渡《わた》した品物《しなもの》、今更《いまさら》急《きゅう》に返《かえ》す程《ほど》なら、あれまでにして、持《も》って行《い》きはしなかろう。お上《かみ》さん。お前《まえ》、つまらない料簡《りょうけん》は、出《だ》さないほうがいいぜ」
「そんならなんぞ、わたしがひとりの料簡《りょうけん》で。……」
「そうだ。これがおせんの帯《おび》でなかったら、まさかお前《まえ》さんは、この夜道《よみち》を、わざわざここまで返《かえ》しにゃ来《き》なさるまい。太夫《たゆう》が締《し》めて踊《おど》ったとて、おせんの色香《いろか》が移《うつ》るという訳《わけ》じゃァなし、芸人《げいにん》のつれあいが、そんな狭《せま》い考《かんが》えじゃ、所詮《しょせん》[#「所詮」は底本では「所謂」]うだつは揚《あ》がらないというものだ。余計《よけい》なお接介《せっかい》のようだが、今頃《いまごろ》太夫《たゆう》は、帯《おび》の行方《ゆくえ》を探《さが》しているだろう。お前《まえ》さんの来《き》たこたァ、どこまでも内所《ないしょ》にしておこうから、このままもう一|度《ど》、持《も》って帰《かえ》ってやるがいい」
「ほほほ、お師匠《ししょう》さん」
 おこのは冷《つめ》たく額《ひたい》で笑《わら》った。
「え」
「折角《せっかく》の御親切《ごしんせつ》でおますが、いったんお返《かえ》ししょうと、持《も》って参《さん》じましたこの帯《おび》、また拝借《はいしゃく》させて頂《いただ》くとしましても、今夜《こんや》はお返《かえ》し申《もう》します」
「ではどうしても、置《お》いて行《い》こうといいなさるんだの」
「はい」
「そうかい。それ程《ほど》までにいうんなら、仕方《しかた》がない、預《あず》かろう。その換《かわ》り、太夫《たゆう》が借《か》りに来《き》たにしても、もう二|度《ど》と再《ふたた》び貸《か》すことじゃないから、それだけは確《しか》と念《ねん》を押《お》しとくぜ」
「よう判《わか》りました。この上《うえ》の御迷惑《ごめいわく》はおかけしまへんよって。……」
「はッはッはッ」と、今《いま》まで座敷《ざしき》の隅《すみ》に黙《だま》りこくっていた松《まつ》五|郎《ろう》が、急《きゅう》に煙管《きせる》をつかんで大笑《おおわら》いに笑《わら》った。
「どうした松《まつ》つぁん」
「どうもこうもありませんが、あんまり話《はなし》が馬鹿気《ばかげ》てるんで、とうとう辛抱《しんぼう》が出来《でき》なくなりやしたのさ。――師匠《ししょう》、ひとつあっしに、ちっとばかりしゃべらしておくんなせえ」
「何《な》んとの」
「身《み》に降《ふ》りかかる話《はなし》じゃねえ。どうせ人様《ひとさま》のことだと思《おも》って、黙《だま》って聴《き》いて居《お》りやしたが。――もし堺屋《さかいや》さんのお上《かみ》さん、つまらねえ焼《や》きもちは、焼《や》かねえ方《ほう》がようがすぜ」
「なにいいなはる」
「なにも蟹《かに》もあったもんじゃねえ。蟹《かに》なら横《よこ》にはうのが近道《ちかみち》だろうに、人間《にんげん》はそうはいかねえ。広《ひろ》いようでも世間《せけん》は狭《せめ》えものだ。どうか真《ま》ッ直《すぐ》向《む》いて歩《ある》いておくんなせえ」
「あんたはん、どなたや」
「あっしゃァ松《まつ》五|郎《ろう》という、けちな職人《しょくにん》でげすがね。お前《まえ》さんの仕方《しかた》が、あんまり情《なさけ》な過《す》ぎるから、口《くち》をはさましてもらったのさ。知《し》らなきゃいって聞《き》かせるが、笠森《かさもり》のおせん坊《ぼう》は、男嫌《おとこぎら》いで通《とお》っているんだ。今《いま》さらお前《まえ》さんとこの太夫《たゆう》が、金鋲《きんびょう》を打《う》った駕籠《かご》で迎《むか》えに来《き》ようが、毛筋《けすじ》一|本《ぽん》動《うご》かすような女《おんな》じゃねえから安心《あんしん》しておいでなせえ。痴話喧嘩《ちわげんか》のとばっちりがここまでくるんじゃ、師匠《ししょう》も飛《と》んだ迷惑《めいわく》だぜ」
 松《まつ》五|郎《ろう》はこういって、ぐっとおこのを睨《にら》みつけた。

    五

 暗《やみ》の中《なか》を、鼠《ねずみ》のようになって、まっしぐらに駆《か》けて来《き》た堺屋《さかいや》の男衆《おとこしゅう》新《しん》七は、これもおこのと同《おな》じように、柳原《やなぎはら》の土手《どて》を八|辻《つじ》ヶ|原《はら》へと急《いそ》いだが、夢中《むちゅう》になって走《はし》り続《つづ》けてきたせいであろう。右《みぎ》へ行《い》く白壁町《しろかべちょう》への道《みち》を左《ひだり》へ折《お》れたために、狐《きつね》につままれでもしたように、方角《ほうがく》さえも判《わか》らなくなった折《おり》も折《おり》、彼方《かなた》の本多豊前邸《ほんだぶぜんてい》の練塀《ねりべい》の影《かげ》から、ひた走《はし》りに走《はし》ってくる女《おんな》の気配《けはい》。まさかと思《おも》って眼《め》をすえた刹那《せつな》瞼《まぶた》ににじんだ髪《かみ》かたちは、正《まさ》しくおこのの姿《すがた》だった。
 新《しん》七は、はッとして飛《と》び上《あが》った。
「おお、お上《かみ》さん」
「あッ。お前《まえ》はどこへ」
「どこへどころじゃござりません。お上《かみ》さんこそ今時分《いまじぶん》、どちらへおいでなさいました」
「わたしは、お前《まえ》も知《し》っての通《とお》り、あの絵師《えし》の春信《はるのぶ》さんのお宅《たく》へ、いって来《き》ました」
「そんならやっぱり、春信師匠《はるのぶししょう》のお宅《たく》へ」
「お前《まえ》がまた、そのようなことを訊《き》いて、何《な》んにしやはる」
「手前《てまえ》は太夫《たゆう》からのおいいつけで、お上《かみ》さんをお迎《むか》えに上《あが》ったのでござります」
「わたしを迎《むか》えに。――」
「へえ。――そうしてあの帯《おび》をどうなされました」
「何《なに》、帯《おび》とえ」
「はい。おせんさんの帯《おび》は、お上《かみ》さんが、お持《も》ちなされたのでござりましょう」
「そのような物《もの》を、わたしが知《し》ろかいな」
「いいえ。知《し》らぬことはございますまい。先程《さきほど》お出《で》かけなさる時《とき》、帯《おび》を何《な》んとやら仰《おっ》しゃったのを、新《しん》七は、たしかにこの耳《みみ》で聞《き》きました」
「知《し》らぬ知《し》らぬ。わたしが春信《はるのぶ》さんをお訊《たず》ねしたのは帯《おび》や衣装《いしょう》のことではない。今度《こんど》鶴仙堂《かくせんどう》から板《いた》おろしをしやはるという、鷺娘《さぎむすめ》の絵《え》のことじゃ。――ええからそこを退《の》きなされ」
「いいや、それはなりません。お上《かみ》さんは、確《たしか》に持《も》ってお出《いで》なされたはず。もう一|度《ど》手前《てまえ》と一|緒《しょ》に、白壁町《しろかべちょう》のお宅《たく》へ、お戻《もど》りなすって下《くだ》さりませ」
「なにいうてんのや。わたしが戻《もど》ったとて、知《し》らぬものが、あろうはずがあるかいな。――こうしてはいられぬのじゃ。そこ退《の》きやいの」
 おこのが払《はら》った手《て》のはずみが、ふと肩《かた》から滑《すべ》ったのであろう。袂《たもと》を放《はな》したその途端《とたん》に、新《しん》七はいやという程《ほど》、おこのに頬《ほほ》を打《う》たれていた。
「あッ。お打《う》ちなさいましたな」
「打《う》ったのではない。お前《まえ》が、わたしの手《て》を取《と》りやはって。……」
「ええ、もう辛抱《しんぼう》がなりませぬ。手前《てまえ》と一|緒《しょ》にもう一|度《ど》、春信《はるのぶ》さんのお宅《たく》まで、とっととおいでなさりませ」
 ぐっとおこのの手首《てくび》をつかんだ新《しん》七には、もはや主従《しゅじゅう》の見《み》さかいもなくなっていたのであろう。たとえ何《な》んであろうと、引《ひき》ずっても連《つ》れて行《い》かねばならぬという、強《つよ》い意地《いじ》が手伝《てつだ》って、荒々《あらあら》しく肩《かた》に手《て》をかけた。
「これ、新《しん》七、何《なに》をしやる」
「何《なに》もかもござりませぬ。あの帯《おび》は、太夫《たゆう》が今度《こんど》の芝居《しばい》にはなくてはならない大事《だいじ》な衣装《いしょう》、手前《てまえ》がひとりで行《い》ったとて、春信《はるのぶ》さんは渡《わた》しておくんなさいますまい。どうでもお前様《まえさま》を一|緒《しょ》に連《つ》れて。――」
「ええ、行《い》かぬ。何《な》んというてもわしゃ行《い》かぬ」
 星《ほし》のみ光《ひか》った空《そら》の下《した》に、二つのかたちは、犬《いぬ》の如《ごと》くに絡《から》み合《あ》っていた。
「ふふふふ。みっともねえ。こんなことであろうと思《おも》って、後《あと》をつけて来《き》たんだが、お上《かみ》さん、こいつァ太夫《たゆう》さんの辱《はじ》ンなるぜ」
「えッ」
「おれだよ。彫職人《ほりしょくにん》の松《まつ》五|郎《ろう》」

    六

 留《と》めるのもきかずに松《まつ》五|郎《ろう》が火《ひ》のようになって出《で》て行《い》ってしまった後《あと》の画室《がしつ》には、春信《はるのぶ》がただ一人《ひとり》おこのの置《お》いて行《い》った帯《おび》を前《まえ》にして、茫然《ぼうぜん》と煙管《きせる》をくわえていたが、やがて何《なに》か思《おも》いだしたのであろう。突然《とつぜん》顔《かお》をあげると、吐《は》きだすように藤吉《とうきち》を呼《よ》んだ。
「藤吉《とうきち》。――これ藤吉《とうきち》」
「へえ」
 いつにない荒《あら》い言葉《ことば》に、あわてて次《つぎ》の間《ま》から飛《と》んで出《で》た藤吉《とうきち》は、敷居際《しきいぎわ》で、もう一|度《ど》ぺこりと頭《あたま》を下《さ》げた。
「何《なに》か御用《ごよう》で」
「羽織《はおり》を出《だ》しな」
「へえ。――どッかへお出《で》かけなさるんで。……」
「余計《よけい》な口《くち》をきかずに、速《はや》くするんだ」
「へえ」
 何《なに》が何《なに》やら、一|向《こう》見当《けんとう》が付《つ》かなくなった藤吉《とうきち》は、次《つぎ》の間《ま》に取《と》って返《かえ》すと、箪笥《たんす》をがたぴしいわせながら、春信《はるのぶ》が好《この》みの鶯茶《うぐいすちゃ》の羽織《はおり》を、捧《ささ》げるようにして戻《もど》って来《き》た。
「これでよろしいんで。……」
 それには答《こた》えずに、藤吉《とうきち》の手《て》から羽織《はおり》を、ひったくるように受取《うけと》った春信《はるのぶ》の足《あし》は、早《はや》くも敷居《しきい》をまたいで、縁先《えんさき》へおりていた。
「師匠《ししょう》、お供《とも》をいたしやす」
「独《ひと》りでいい」
「お一人《ひとり》で。……そんなら提灯《ちょうちん》を。――」
 が、春信《はるのぶ》の心《こころ》は、やたらに先《さき》を急《いそ》いでいたのであろう。いつもなら、藤吉《とうきち》を供《とも》に連《つ》れてさえ、夜道《よみち》を歩《あるく》くには、必《かなら》ず提灯《ちょうちん》を持《も》たせるのであったが、今《いま》はその提灯《ちょうちん》を待《ま》つ間《ま》ももどかしく、羽織《はおり》の片袖《かた
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