青《あお》く動《うご》いた。
二
その時分《じぶん》、当《とう》のおこのは、駕籠《かご》を急《いそ》がせて、月《つき》のない柳原《やなぎはら》の土手《どて》を、ひた走《はし》りに走《はし》らせていた。
欝金《うこん》の風呂敷《ふろしき》に包《つつ》んで、膝《ひざ》の上《うえ》に確《しっか》と抱《かか》えたのは、亭主《ていしゅ》の松江《しょうこう》が今度《こんど》森田屋《もりたや》のおせんの狂言《きょうげん》を上演《じょうえん》するについて、春信《はるのぶ》の家《いえ》へ日参《にっさん》して借《か》りて来《き》た、いわくつきのおせんの帯《おび》であるのはいうまでもなかった。
鉄漿《おはぐろ》も黒々《くろぐろ》と、今朝《けさ》染《そ》めたばかりのおこのの歯《は》は、堅《かた》く右《みぎ》の袂《たもと》を噛《か》んでいた。
当時《とうじ》江戸《えど》では一|番《ばん》だという、その笠森《かさもり》の水茶屋《みずぢゃや》の娘《むすめ》が、どれ程《ほど》勝《すぐ》れた縹緻《きりょう》にもせよ、浪速《なにわ》は天満天神《てんまんてんじん》の、橋《はし》の袂《たもと》に程近《ほどちか》い薬種問屋《やくしゅどんや》「小西《こにし》」の娘《むすめ》と生《う》まれて、何《なに》ひとつ不自由《ふじゆう》も知《し》らず、我《わが》まま勝手《かって》に育《そだ》てられて来《き》たおこのは、たとい役者《やくしゃ》の女房《にょうぼう》には不向《ふむき》にしろ、品《ひん》なら縹緻《きりょう》なら、人《ひと》には引《ひ》けは取《と》らないとの、固《かた》い己惚《うぬぼれ》があったのであろう。仮令《たとえ》江戸《えど》に幾《いく》千の女《おんな》がいようともうち[#「うち」に傍点]の太夫《たゆう》にばかりは、足《あし》の先《さき》へも触《ふ》らせることではないと、三|年前《ねんまえ》に婚礼早々《こんれいそうそう》大阪《おおさか》を発《た》って来《き》た時《とき》から、肚《はら》の底《そこ》には、梃《てこ》でも動《うご》かぬ強《つよ》い心《こころ》がきまっていた。
この秋《あき》の狂言《きょうげん》に、良人《おっと》が選《えら》んだ「おせん」の芝居《しばい》を、重助《じゅうすけ》さんが書《か》きおろすという。もとよりそれには、連《つ》れ添《そ》う身《み》の異存《いぞん》のあろうはずもなく、本読《ほんよ》みも済《す》んで、愈《いよいよ》稽古《けいこ》にかかった四五|日《にち》は、寝《ね》る間《ま》をつめても、次《つぎ》の間《ま》に控《ひか》えて、茶《ちゃ》よ菓子《かし》よと、女房《にょうぼう》の勤《つと》めに、さらさら手落《ておち》はなく過《す》ぎたのであったが、さて稽古《けいこ》が積《つ》んで、おのれの工夫《くふう》が真剣《しんけん》になる時分《じぶん》から、ふと眼《め》についたのは、良人《おっと》の居間《いま》に大事《だいじ》にたたんで置《お》いてある、もみじを散《ち》らした一|本《ぽん》の女帯《おんなおび》だった。
買《か》った衣装《いしょう》というのなら、誰《だれ》に見《み》しょうとて、別《べつ》に邪間《じゃま》になるまいと思《おも》われる、その帯《おび》だけに殊更《ことさら》に、夜寝《よるね》る時《とき》まで枕許《まくらもと》へ引《ひ》き付《つけ》ての愛着《あいちゃく》は、並大抵《なみたいてい》のことではないと、疑《うたが》うともなく疑《うたが》ったのが、事《こと》の始《はじ》まりというのであろうか。おこのが昼《ひる》といわず夜といわず、ひそかに睨《にら》んだとどのつまりは、独《ひと》り四|畳半《じょうはん》に立籠《たてこ》もって、おせんの型《かた》にうき身《み》をやつす、良人《おっと》の胸《むね》に巻《ま》きつけた帯《おび》が、春信《はるのぶ》えがくところの、おせんの大事《だいじ》な持物《もちもの》だった。
カッとなって、持《も》ち出《だ》したのではもとよりなく、きのうもきょうもと、二日二晩《ふつかふたばん》考《かんが》え抜《ぬ》いた揚句《あげく》の果《は》てが、隣座敷《となりざしき》で茶《ちゃ》を入《い》れていると見《み》せての、雲隠《くもがくれ》れが順《じゅん》よく運《はこ》んで、大通《おおどお》りへ出《で》て、駕籠《かご》を拾《ひろ》うまでの段取《だんどり》りは、誰一人《だれひとり》知《し》る者《もの》もなかろうと思《おも》ったのが、手落《ておち》といえばいえようが、それにしても、新《しん》七が後《あと》を追《お》って来《き》ようなぞとは、まったく夢《ゆめ》にも想《おも》わなかった。
「駕籠屋《かごや》さん。済《す》まんが、急《いそ》いどくれやすえ」
「へいへい、合点《がってん》でげす。月《つき》はなくとも星明《ほしあか》り、足許《あしもと》に狂《くる》いはござんせんから御安心《ごあんしん》を」
「酒手《さかて》はなんぼでもはずみますさかい、そのつもりで頼《たの》ンます」
「相棒《あいぼう》」
「おお」
「聞《き》いたか」
「聞《き》いたぞ」
「流石《さすが》にいま売《うり》だしの、堺屋《さかいや》さんのお上《かみ》さんだの。江戸《えど》の女達《おんなたち》に聞《き》かしてやりてえ嬉《うれ》しい台詞《せりふ》だ」
「その通《とお》り。――お上《かみ》さん。太夫《たゆう》の人気《にんき》は大《たい》したもんでげすぜ。これからァ、何《な》んにも恐《こわ》いこたァねえ、日《ひ》の出《で》の勢《いきお》いでげさァ」
「そうともそうとも、酒手《さかて》と聞《き》きいていうんじゃねえが、太夫《たゆう》はでえいち、品《ひん》があるッて評判《ひょうばん》だて。江戸役者《えどやくしゃ》にゃ、情《なさけ》ねえことに、品《ひん》がねえからのう」
「おや駕籠屋《かごや》さん。左様《さよう》にいうたら、江戸《えど》のお方《かた》に憎《にく》まれまッせ」
「飛《と》んでもねえ。太夫《たゆう》を誉《ほ》めて、憎《にく》むような奴《やつ》ァ、みんなけだもの[#「けだもの」に傍点]でげさァね」
「そうとも」
柳原《やなぎはら》の土手《どて》を左《ひだり》に折《お》れて、駕籠《かご》はやがて三|河町《かわちょう》の、大銀杏《おおいちょう》の下《した》へと差《さ》しかかっていた。
夜《よ》は正《まさ》に四つだった。
三
白壁町《しろかべちょう》の春信《はるのぶ》の住居《すまい》では、今《いま》しも春信《はるのぶ》が彫師《ほりし》の松《まつ》五|郎《ろう》を相手《あいて》に、今度《こんど》鶴仙堂《かくせんどう》から板《いた》おろしをする「鷺娘《さぎむすめ》」の下絵《したえ》を前《まえ》にして、頻《しき》りに色合《いろあわ》せの相談中《そうだんちゅう》であったが、そこへひょっこり顔《かお》を出《だ》した弟子《でし》の藤吉《とうきち》は、団栗眼《どんぐりまなこ》を一層《いっそう》まるくしながら、二三|度《ど》続《つづ》けさまに顎《あご》をしゃくった。
「お師匠《ししょう》さん、お客《きゃく》でござんす」
「どなたかおいでなすった」
「堺屋《さかいや》さんの、お上《かみ》さんがお見《み》えなんで」
「なに、堺屋《さかいや》のお上《かみ》さんだと。そりゃァおかしい。何《なに》かの間違《まちが》いじゃねえのかの」
「間違《まちが》いどころじゃござんせん。真正証銘《しんしょうしょうめい》のお上《かみ》さんでござんすよ」
「お上《かみ》さんが、何《な》んの用《よう》で、こんなにおそく来《き》なすったんだ」
ついに一|度《ど》も来《き》たことのない、中村松江《なかむらしょうこう》の女房《にょうぼう》が、訪《たず》ねて来《き》たと聞《き》いただけでは、春信《はるのぶ》は、直《す》ぐさまその気《き》になれなかったのであろう。絵《え》の具《ぐ》から眼《め》を離《はな》すと、藤吉《とうきち》の顔《かお》をあらためて見直《みなお》した。
「何《なん》の御用《ごよう》か存《ぞん》じませんが、一|刻《こく》も早《はや》くお師匠《ししょう》さんにお目《め》にかかって、お願《ねが》いしたいことがあると、それはそれは、急《いそ》いでおりますんで。……」
「はァてな。――何《な》んにしても、来《き》たとあれば、ともかくこっちへ通《とお》すがいい」
藤吉《とうきち》が、あたふたと行《い》ってしまうと、春信《はるのぶ》は仕方《しかた》なしに松《まつ》五|郎《ろう》の前《まえ》に置《お》いた下絵《したえ》を、机《つくえ》の上《うえ》へ片着《かたづ》けて、かるく舌《した》うちをした。
「飛《と》んだところへ邪間《じゃま》が這入《はい》って、気《き》の毒《どく》だの」
「どういたしやして、どうせあっしゃァ、外《ほか》に用《よう》はありゃァしねえんで。……なんならあっちへ行《い》って待《ま》っとりやしょうか」
「いやいや、それにゃァ及《およ》ぶまい。話《はなし》は直《す》ぐに済《す》もうから、構《かま》わずここにいるがいい」
「そんならこっちの隅《すみ》の方《ほう》へ、まいまいつぶろ[#「まいまいつぶろ」に傍点]のようンなって、一|服《ぷく》やっておりやしょう」
ニヤリと笑《わら》った松《まつ》五|郎《ろう》が、障子《しょうじ》の隅《すみ》へ、まるくなった時《とき》だった。藤吉《とうきち》に案内《あんない》されたおこのの姿《すがた》が、影絵《かげえ》のように縁先《えんさき》へ現《あらわ》れた。
「師匠《ししょう》、お連《つ》れ申《もう》しました」
「御免やすえ」
「さァ、ずっとこっちへ」
欝金《うこん》の包《つつみ》を抱《かか》えたおこのは、それでも何《なに》やら心《こころ》が乱《みだ》れたのであろう。上気《じょうき》した顔《かお》をふせたまま、敷居際《しきいぎわ》に頭《あたま》を下《さ》げた。
「こないに遅《おそ》う、無躾《ぶしつけ》に伺《うかが》いまして。……」
「どんな御用《ごよう》か、遠慮《えんりょ》なく、ずっとお通《とお》りなさるがいい」
「いいえもう、ここで結構《けっこう》でおます」
行燈《あんどん》の灯《ひ》が長《なが》く影《かげ》をひいた、その鼠色《ねずみいろ》に包《つつ》まれたまま、石《いし》のように硬《かた》くなったおこのの髪《かみ》が二|筋《すじ》三|筋《すじ》、夜風《よかぜ》に怪《あや》しくふるえて、心《こころ》もち青《あお》みを帯《お》びた頬《ほほ》のあたりに、ほのかに汗《あせ》がにじんでいた。
「そうしてお上《かみ》さんは、こんな遅《おそ》く、何《な》んの用《よう》でおいでなすった」
「拝借《はいしゃく》の、おせん様《さま》の帯《おび》を、お返《かえ》し申《もう》しに。――」
「なに、おせんの帯《おび》を。――」
「はい」
「それはまた何《な》んでの」
春信《はるのぶ》は、意外《いがい》なおこのの言葉《ことば》は、思《おも》わず眼《め》を瞠《みは》った。
「御大切《おたいせつ》なお品《しな》ゆえ、粗相《そそう》があってはならんよって、速《はよ》うお返《かえ》し申《もう》すが上分別《じょうふんべつ》と、思《おも》い立《た》って参《さん》じました」
「では太夫《たゆう》はこの帯《おび》を、芝居《しばい》にゃ使《つか》わないつもりかの」
「はい。折角《せっかく》ながら。……」
おこのは、そのまま固《かた》く唇《くちびる》を噛《か》んだ。
四
「ふふふふ、お上《かみ》さん」
じっとおこのの顔《かお》を見詰《みつ》めていた春信《はるのぶ》は、苦笑《くしょう》に唇《くちびる》を歪《ゆが》めた。
「はい」
「お前《まえ》さんもう一|度《ど》、思《おもい》い直《なお》して見《み》なさる気《き》はないのかい」
「おもい直《なお》せといやはりますか」
「まずのう」
「なぜでおます」
「なぜかそいつは、そっちの胸《むね》に、訊《き》いて見《み》たらば判《わか》ンなさろう。――その帯《おび》は、おせんから頼《たの》まれて、この春信《はるのぶ》が
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