き》たのは、松《まつ》五|郎《ろう》の笑《わら》い声《ごえ》だった。
「はッはッは、若旦那《わかだんな》、まだそんなことを、いっといでなさるんでござんすかい。耳寄《みみよ》りの話《はなし》を聞《き》いてめえりやした。いい智恵《ちえ》をお貸《か》し申《もう》しやすから、小僧《こぞう》さんのしくじりなんざさっぱり水《みず》に流《なが》しておやんなさいまし」
 中番頭《ちゅうばんとう》から小僧達《こぞうたち》まで、一|同《どう》の顔《かお》が一|齊《せい》に松《まつ》五|郎《ろう》の方《ほう》へ向《む》き直《なお》った。が、徳太郎《とくたろう》は暖簾口《のれんぐち》から見世《みせ》の方《ほう》を睨《にら》みつけたまま、返事《へんじ》もしなかった。
「もし、若旦那《わかだんな》。悪《わる》いこたァ申《もう》しやせん。お前《まえ》さんが、鯱鉾立《しゃっちょこだち》をしてお喜《よろこ》びなさる、うれしい話《はなし》を聞《き》いてめえりやしたんで。――ここで話《はな》しちゃならねえと仰《おっ》しゃるんなら、そちらへ行《い》ってお話《はな》しいたしやす。着物《きもの》もぬれちゃァ居《お》りやせん。どうでげす。それともこのまま帰《かえ》りやしょうか」
 被《かぶ》っていた桐油《とうゆ》を、見世《みせ》の隅《すみ》へかなぐり棄《す》てて、ふところから取出《とりだ》した鉈豆煙管《なたまめぎせる》[#「鉈豆煙管」は底本では「鉈煙管」]へ、叺《かます》の粉煙草《こなたばこ》を器用《きよう》に詰《つ》めた松《まつ》五|郎《ろう》は、にゅッと煙草盆《たばこぼん》へ手《て》を伸《の》ばしながら、ニヤリと笑《わら》って暖簾口《のれんぐち》を見詰《みつ》めた。
「松《まつ》つぁん」
「へえ」
「若旦那《わかだんな》が、こっちへとおいなさる」
「そいつァどうも。――」
「おっと待《ま》った。その足《あし》で揚《あ》がられちゃかなわない。辰《たつ》どん、裏《うら》の盥《たらい》へ水《みず》を汲《く》みな」
 番頭《ばんとう》の幸兵衛《こうべえ》は、壁《かべ》の荒塗《あらぬ》りのように汚泥《はね》の揚《あ》がっている松《まつ》五|郎《ろう》の脛《すね》を、渋《しぶ》い顔《かお》をしてじっと見守《みまも》った。
「ふふふ、松《まつ》五|郎《ろう》は、見《み》かけに寄《よ》らねえ忠義者《ちゅうぎもの》でげすぜ」
 独《ひと》り言《ごと》をいって顎《あご》を突出《つきだ》した松《まつ》五|郎《ろう》の顔《かお》は、道化方《どうけかた》の松島茂平次《まつしまもへいじ》をそのままであった。

    八

 行水《ぎょうずい》でもつかうように、股《もも》の付根《つけね》まで洗《あら》った松《まつ》五|郎《ろう》が、北向《きたむき》の裏《うら》二|階《かい》にそぼ降《ふ》る雨《あめ》の音《おと》を聞《き》きながら、徳太郎《とくたろう》と対座《たいざ》していたのは、それから間《ま》もない後《あと》だった。瓦《かわら》のおもてに、あとからあとから吸《す》い込《こ》まれて行《い》く秋雨《あきさめ》の、時《とき》おり、隣《となり》の家《いえ》から飛《と》んで来《き》た柳《やなぎ》の落葉《おちば》を、貼《は》り付《つ》けるように濡《ぬ》らして消《き》えるのが、何《なに》か近頃《ちかごろ》はやり始《はじ》めた飛絣《とびがすり》のように眼《め》に映《うつ》った。
 銀煙管《ぎんぎせる》を握《にぎ》った徳太郎《とくたろう》の手《て》は、火鉢《ひばち》の枠《わく》に釘着《くぎづ》けにされたように、固《かた》くなって動《うご》かなかった。
「ではおせんにゃ、ちゃんとした情人《いろ》があって、この節《せつ》じゃ毎日《まいにち》、そこへ通《かよ》い詰《づ》めだというんだね」
「まず、ざっとそんなことなんで。……」
「いったい、そのおせんの情人《いろ》というのは、何者《なにもの》なんだか、松《まっ》つぁん、はっきりあたしに教《おし》えておくれ」
「さァ、そいつァどうも。――」
「何《なに》をいってんだね。そこまで明《あ》かしておきながら、あとは幽霊《ゆうれい》の足《あし》にしちまうなんて、馬鹿《ばか》なことがあるもんかね。――お前《まえ》さんさっき、何《な》んといったい。若旦那《わかだんな》が鯱鉾立《しゃっちょこだち》して喜《よろこ》ぶ話《はなし》だと、見世《みせ》であんなに、大《おお》きなせりふ[#「せりふ」に傍点]でいったじゃないか。あたしゃ口惜《くや》しいけれど聞《き》いてるんだよ。どうせその気《き》で来《き》たんなら、あからさまに、一から十まで話《はなし》しておくれ。相手《あいて》の名《な》を聞《き》かないうちは、気の毒だが松《まっ》つぁん、ここは滅多《めった》に動《うご》かしゃァしないよ」
「ちょ、ちょいと待《ま》っとくんなさい、若旦那《わかだんな》。無理《むり》をおいいなすっちゃ困《こま》りやす」
「何《なに》が無理《むり》さ」
「何《なに》がと仰《おっ》しゃって、実《じつ》ァあっしゃァ、相手《あいて》の名前《なまえ》まじァ知《し》らねえんで。……」
「名前《なまえ》を知《し》らないッて」
「そうなんで。……」
「そんなら、名前《なまえ》はともかく、どんな男《おとこ》なんだか、それをいっとくれ。お武家《ぶけ》か、商人《あきんど》か、それとも職人《しょくにん》か。――」
「そいつがやっぱり判《わか》らねえんで。――」
「松つぁん」
 徳太郎《とくたろう》の声《こえ》は甲走《かんばし》った。
「へえ」
「たいがいにしとくれ。あたしゃ酔狂《すいきょう》で、お前《まえ》さんをここへ通《とお》したんじゃないんだよ。おせんが隠《かく》れて逢《あ》っているという、相手《あいて》の男《おとこ》を知《し》りたいばっかりに、見世《みせ》の者《もの》の手前《てまえ》も構《かま》わず、わざわざ二|階《かい》へあげたんじゃないか。名《な》を知《し》らないのはまだしものこと、お武家《ぶけ》か商人《あきんど》か、職人《しょくにん》か、それさえ訳《わけ》がわからないなんて、馬鹿《ばか》にするのも大概《たいがい》におし。――もうそんな人《ひと》にゃ用《よう》はないから、とっとと消《き》えて失《う》せとくれよ」
「帰《けえ》れと仰《おっ》しゃるんなら、帰《けえ》りもしましょうが、このまま帰《けえ》っても、ようござんすかね」
「なんだって」
「若旦那《わかだんな》。あっしゃァなる程《ほど》、おせんの相手《あいて》が、どこの誰《だれ》だか知《し》っちゃいませんが、そんなこたァ知《し》ろうと思《おも》や、半日《はんにち》とかからねえでも、ちゃァんと突《つ》きとめてめえりやす。それよりも若旦那《わかだんな》。もっとお前《まえ》さんにゃ、大事《だいじ》なことがありゃァしませんかい」
「そりゃ何《な》んだい」
「まァようがす。とっとと消《き》えて失《う》せろッてんなら、あんまり畳《たたみ》のあったまらねえうちに、いい加減《かげん》で引揚《ひきあ》げやしょう。――どうもお邪間《じゃま》いたしやした」
「お待《ま》ち」
「何《なん》か御用《ごよう》で」
「あたしの大事《だいじ》なことだという、それを聞《き》かせてもらいましょう」
 が、松《まつ》五|郎《ろう》はわざと頬《ほほ》をふくらまして、鼻《はな》の穴《あな》を天井《てんじょう》へ向《む》けた。

  帯《おび》


    一

 祇園守《ぎおんまもり》の定紋《じょうもん》を、鶯茶《うぐいすちゃ》に染《そ》め抜《ぬ》いた三|尺《じゃく》の暖簾《のれん》から、ちらりと見《み》える四|畳半《じょうはん》。床《とこ》の間《ま》に※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]《さ》した秋海棠《しゅうかいどう》が、伊満里《いまり》の花瓶《かびん》に影《かげ》を映《うつ》した姿《すがた》もなまめかしく、行燈《あんどん》の焔《ほのお》が香《こう》のように立昇《たちのぼ》って、部屋《へや》の中程《なかほど》に立《た》てた鏡台《きょうだい》に、鬘下地《かつらしたじ》の人影《ひとかげ》がおぼろであった。
 所《ところ》は石町《こくちょう》の鐘撞堂新道《かねつきどうしんみち》。白紙《はくし》の上《うえ》に、ぽつんと一|点《てん》、桃色《ももいろ》の絵《え》の具《ぐ》を垂《た》らしたように、芝居《しばい》の衣装《いしょう》をそのまま付《つ》けて、すっきりたたずんだ中村松江《なかむらしょうこう》の頬《ほほ》は、火桶《ひおけ》のほてりに上気《じょうき》したのであろう。たべ酔《よ》ってでもいるかと思《おも》われるまでに赤《あか》かった。
「おこの。――これ、おこの」
 鏡《かがみ》のおもてにうつしたおのが姿《すがた》を見詰《みつ》めたまま、松江《しょうこう》は隣座敷《となりざしき》にいるはずの、女房《にょうぼう》を呼《よ》んで見《み》た。が、いずこへ行《い》ったのやら、直《す》ぐに返事《へんじ》は聞《き》かれなかった。
「ふふ、居《お》らんと見《み》えるの。このようによう映《うつ》る格好《かっこう》を、見《み》せようとおもとるに。――」
 松江《しょうこう》はそういいながら、きゃしゃな身体《からだ》をひねって、踊《おどり》のようなかたちをしながら、再《ふたた》び鏡《かがみ》のおもてに呼《よ》びかけた。
「おせんが茶《ちゃ》をくむ格好《かっこう》じゃ、早《はよ》う見《み》に来《き》たがいい」
「もし、太夫《たゆう》」
 暖簾《のれん》の下《した》にうずくまって、髷《まげ》の刷毛先《はけさき》を、ちょいと指《ゆび》で押《おさ》えたまま、ぺこりと頭《あたま》をさげたのは、女房《にょうぼう》のおこのではなくて、男衆《おとこしゅう》の新《しん》七だった。
「新《しん》七かいな」
「へえ」
「おこのは何《なに》をしてじゃ」
「さァ」
「何《なん》としたぞえ」
「お上《かみ》さんは、もう一|時《とき》も前《まえ》にお出《で》かけなすって、お留守《るす》でござります」
「留守《るす》やと」
「へえ」
「どこへ行《い》った」
「白壁町《しろかべちょう》の、春信《はるのぶ》さんのお宅《たく》へ行《い》くとか仰《おっ》しゃいまして、――」
「何《な》んじゃと。春信《はるのぶ》さんのお宅《たく》へ行《い》った。そりゃ新《しん》七、ほんまかいな」
「ほんまでござります」
「おこのがまた、白壁町《しろかべちょう》さんへ、どのような用事《ようじ》で行《い》ったのじゃ。早《はよ》う聞《き》かせ」
「御用《ごよう》の筋《すじ》は存《ぞん》じませぬが、帯《おび》をどうとやらすると、いっておいででござりました」
「帯《おび》。新《しん》七。――そこの箪笥《たんす》をあけて見《み》や」
 あわてて箪笥《たんす》の抽斗《ひきだし》へ手《て》をかけた新《しん》七は、松江《しょうこう》のいいつけ通《どお》り、片《かた》ッ端《ぱし》から抽斗《ひきだし》を開《あ》け始《はじ》めた。
「着物《きもの》も羽織《はおり》も、みなそこへ出《だ》して見《み》や」
「こうでござりますか」
「もっと」
「これも」
「ええもういちいち聞《き》くことかいな。一|度《ど》にあけてしまいなはれ」
 ぎっしり、抽斗《ひきだし》一|杯《ぱい》に詰《つま》った衣装《いしょう》を、一|枚《まい》残《のこ》らず畳《たたみ》の上《うえ》へぶちまけたその中《なか》を、松江《しょうこう》は夢中《むちゅう》で引《ひ》ッかき廻《まわ》していたが、やがて眼《め》を据《す》えながら新《しん》七に命《めい》じた。
「おまえ、直《す》ぐに白壁町《しろかべちょう》へ、おこのの後《あと》を追《お》うて、帯《おび》を取《と》って戻《もど》るのじゃ」
「何《な》んの帯《おび》でござります」
「阿呆《あほう》め、おせんの帯《おび》じゃ。あれがのうては、肝腎《かんじん》の芝居《しばい》がわや[#「わや」に傍点]になってしまうがな」
 剃《そ》りたての松江《しょうこう》の眉《まゆ》は、
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