》から腰《こし》へと浴衣《ゆかた》の滑《すべ》り落《お》ちるのさえ、まったく気《き》づかぬのであろう。三日月《みかづき》の淡《あわ》い光《ひかり》が青《あお》い波紋《はもん》を大《おお》きく投《な》げて、白珊瑚《しろさんご》を想《おも》わせる肌《はだ》に、吸《す》い着《つ》くように冴《さ》えてゆく滑《なめ》らかさが、秋草《あきぐさ》の上《うえ》にまで映《は》え盛《さか》ったその刹那《せつな》、ふと立上《たちあが》ったおせんは、颯《さっ》と浴衣《ゆかた》をかなぐり棄《す》てると手拭《てぬぐい》片手《かたて》に、上手《かみて》の段《だん》を二|段《だん》ばかり、そのまま戸袋《とぶくろ》の蔭《かげ》に身《み》を隠《かく》した。
「あッ」
「たッ」
辱《はじ》も外聞《がいぶん》も忘《わす》れ果《は》てたか、徳太郎《とくたろう》と松《まつ》五|郎《ろう》の口《くち》からは、同時《どうじ》に奇声《きせい》が吐《は》きだされた。
三
「おせんや」
「あい」
「何《な》んだえ、いまのあの音《おと》は。――」
「さァ、何《な》んでござんしょう。おおかた金魚《きんぎょ》を狙《ねら》う、泥棒猫《どろぼうねこ》かも知《し》れませんよ」
「そんならいいが、あたしゃまたおまえが転《ころ》びでもしたんじゃないかと思《おも》って、びっくりしたのさ。おまえあって、あたし、というより、勿体《もったい》ないが、おまえあってのお稲荷様《いなりさま》、滅多《めった》に怪我《けが》でもしてごらん、それこそ御参詣《おさんけい》が、半分《はんぶん》に減《へ》ってしまうだろうじゃないか。――縹緻《きりょう》がよくって孝行《こうこう》で、その上《うえ》愛想《あいそう》ならとりなしなら、どなたの眼《め》にも笠森《かさもり》一、お腹《なか》を痛《いた》めた娘《むすめ》を賞《ほ》める訳《わけ》じゃないが、あたしゃどんなに鼻《はな》が高《たか》いか。……」
「まァお母《かあ》さん。――」
「いいやね。恥《はず》かしいこたァありゃァしない。子《こ》を賞《ほ》める親《おや》は、世間《せけん》には腐《くさ》る程《ほど》あるけれど、どれもこれも、これ見《み》よがしの自慢《じまん》たらたら。それと違《ちが》ってあたしのは、おまえに聞《き》かせるお礼《れい》じゃないか。さ、ひとつついでに、背中《せなか》を流《なが》してあげようから、その手拭《てぬぐい》をこっちへお出《だ》し」
「いいえ、汗《あせ》さえ流《なが》せばようござんすから……」
「何《なに》をいうのさ。いいからこっちへお向《む》きというのに」
二十二で伜《せがれ》の千|吉《きち》を生《う》み、二十六でおせんを生《う》んだその翌年《よくねん》、蔵前《くらまえ》の質見世《しちみせ》伊勢新《いせしん》の番頭《ばんとう》を勤《つと》めていた亭主《ていしゅ》の仲吉《なかきち》が、急病《きゅうびょう》で亡《な》くなった、幸《こう》から不幸《ふこう》への逆落《さかおと》しに、細々《ほそぼそ》ながら人《ひと》の縫物《ぬいもの》などをさせてもらって、その日《ひ》その日《ひ》を過《す》ごして早《はや》くも十八|年《ねん》。十八に家出《いえで》をしたまま、いまだに行方《ゆくえ》も知《し》れない伜《せがれ》千|吉《きち》の不甲斐《ふがい》なさは、思《おも》いだす度毎《たびごと》にお岸《きし》が涙《なみだ》の種《たね》ではあったが、踏《ふ》まれた草《くさ》にも花咲《はなさ》くたとえの文字通《もじどお》り、去年《きょねん》の梅見時分《うめみじぶん》から伊勢新《いせしん》の隠居《いんきょ》の骨折《ほねお》りで、出《だ》させてもらった笠森稲荷《かさもりいなり》の水茶屋《みずぢゃや》が忽《たちま》ち江戸中《えどじゅう》の評判《ひょうばん》となっては、凶《きょう》が大吉《だいきち》に返《かえ》った有難《ありがた》さを、涙《なみだ》と共《とも》に喜《よろこ》ぶより外《ほか》になく、それにつけても持《も》つべきは娘《むすめ》だと、近頃《ちかごろ》、お岸《きし》が掌《て》を合《あわ》せるのは、笠森様《かさもりさま》ではなくておせんであった。
「おせん」
「あい」
「つかぬことを訊《き》くようだが、おまえ毎日《まいにち》見世《みせ》へ出《で》ていて、まだこれぞと思《おも》う、好《す》いたお方《かた》は出来《でき》ないのかえ」
「まあ何《なに》かと思《おも》えばお母《かあ》さんが。――あたしゃそんな人《ひと》なんか、ひとりもありァしませんよ」
「ほほほほ。お怒《おこ》りかえ」
「怒《おこ》りゃしませんけれど、あたしゃ男《おとこ》は嫌《きら》いでござんす」
「なに、男《おとこ》は嫌《きら》いとえ」
「あい」
「ほんにまァ。――」
この春《はる》まで、まだまだ子供《こども》と思《おも》っていたおせんとは、つい食違《くいちが》って、一つ盥《たらい》で行水《ぎょうずい》つかう折《おり》もないところから、お岸《きし》はいまだにそのままのなりかたちを想像《そうぞう》していたのであったが、ふとした物音《ものおと》に駆《か》け着《つ》けたきっかけ[#「きっかけ」に傍点]に、半年振《はんとしぶり》で見《み》たおせんの体《からだ》は、まったく打《う》って変《か》わった大人《おとな》びよう。七八つの時分《じぶん》から、鴉《からす》の生《う》んだ鶴《つる》だといわれたくらい、色《いろ》の白《しろ》いが自慢《じまん》は知《し》れていたものの、半年《はんとし》見《み》ないと、こうも変《かわ》るものかと驚《おどろ》くばかりの色《いろ》っぽさは、肩《かた》から乳《ちち》へと流《なが》れるほうずき[#「ほうずき」に傍点]のふくらみをそのままの線《せん》に、殊《こと》にあらわの波《なみ》を打《う》たせて、背《せ》から腰《こし》への、白薩摩《しろさつま》の徳利《とくり》を寝《ね》かしたような弓《ゆみ》なりには、触《さわ》ればそのまま手先《てさき》が滑《すべ》り落《お》ちるかと、怪《あや》しまれるばかりの滑《なめ》らかさが、親《おや》の目《め》にさえ迫《せま》らずにはいなかった。
嫌《きら》いな客《きゃく》が百|人《にん》あっても、一人《ひとり》は好《す》きがあろうかと、訊《き》いて見《み》たいは、娘《むすめ》もつ親《おや》の心《こころ》であろう。
四
「若旦那《わかだんな》」
「何《な》んとの」
「何《な》んとの、じゃァござんせんぜ。あの期《ご》に及《およ》んで、垣根《かきね》へ首《くび》を突込《つっこ》むなんざ、情《なさけ》なすぎて、涙《なみだ》が出《で》るじゃァござんせんか」
「おやおや、これはけしからぬ。お前《まえ》が腰《こし》を押《お》したからこそ、あんな態《ざま》になったんじゃないか、それを松《まつ》つぁん、あたしにすりつけられたんじゃ、おたまり小法師《こぼし》がありゃァしないよ」
「あれだ、若旦那《わかだんな》。あっしゃァ後《うしろ》にいたんじゃねえんで。若旦那《わかだんな》と並《なら》んで、のぞいてたんじゃござんせんか。腰《こし》を押《お》すにも押《お》さないにも、まず、手《て》が届《とど》きゃァしませんや。――それにでえいち、あの声《こえ》がいけやせん。おせんの浴衣《ゆかた》が肩《かた》から滑《すべ》るのを、見《み》ていなすったまでは無事《ぶじ》でげしたが、さっと脱《ぬ》いで降《お》りると同時《どうじ》に、きゃっと聞《き》こえた異様《いよう》な音声《おんせい》。差《さ》し詰《づめ》志道軒《しどうけん》なら、一|天《てん》俄《にわか》にかき曇《くも》り、あれよあれよといいもあらせず、天女《てんにょ》の姿《すがた》は忽《たちま》ちに、隠《かく》れていつか盥《たらい》の中《なか》。……」
「おいおい松《まっ》つぁん。いい加減《かげん》にしないか。声《こえ》を出《だ》したなお前《まえ》が初《はじ》めだ」
「おやいけねえ。いくら主《しゅ》と家来《けらい》でも、あっしにばかり、罪《つみ》をなするなひどうげしょう」
「ひどいことがあるもんか。これからゆっくりかみしめて、味《あじ》を見《み》ようというところで、お前《まえ》に腰《こし》を押《お》されたばっかりに、それごらん、手《て》までこんなに傷《きず》だらけだ」
「そんならこれでもお付《つ》けなんって。……おっとしまった。きのうかかあが洗《あら》ったんで、まるっきり袂《たもと》くそがありゃァしねえ」
「冗談《じょうだん》いわっし、お前《まえ》の袂《たもと》くそなんぞ付《つ》けられたら、それこそ肝腎《かんじん》の人《ひと》さし指《ゆび》が、本《もと》から腐《くさ》って落《お》ちるわな」
「あっしゃァまだ瘡気《かさけ》の持合《もちあわ》せはござせんぜ」
「なにないことがあるものか。三日《みっか》にあげず三|枚橋《まいばし》へ横丁《よこちょう》へ売女《やまねこ》を買《か》いに出《で》かけてるじゃないか。――鼻《はな》がまともに付《つ》いてるのが、いっそ不思議《ふしぎ》なくらいなものだ」
「こいつァどうも御挨拶《ごあいさつ》だ。人《ひと》の知《し》らない、おせんの裸《はだか》をのぞかせた挙句《あげく》、鼻《はな》のあるのが不思議《ふしぎ》だといわれたんじゃ、松《まつ》五|郎《ろう》立《た》つ瀬《せ》がありやせん。冗談《じょうだん》は止《よ》しにして、ひとつ若旦那《わかだんな》、縁起直《えんぎなお》しに、これから眼《め》の覚《さ》めるとこへ、お供《とも》をさせておくんなさいまし」
「眼《め》の覚《さ》めるとことは。――」
「おとぼけなすっちゃいけません。闇《やみ》の夜《よ》のない女護《にょご》ヶ|島《しま》、ここから根岸《ねぎし》を抜《ぬ》けさえすりゃァ、眼《め》をつぶっても往《い》けやさァね」
「折角《せっかく》だが、そんな所《ところ》は、あたしゃきょうから嫌《きら》いになったよ」
「なんでげすって」
「橘屋徳太郎《たちばなやとくたろう》、女房《にょうぼう》はかぎ屋のおせんにきめました」
「と、とんでもねえ、若旦那《わかだんな》。おせんはそんななまやさしい。――」
「おっと皆《みな》までのたまうな。手前《てまえ》、孫呉《そんご》の術《じゅつ》を心得《こころえ》て居《お》りやす」
「損《そん》五も得《とく》七もありゃァしません。当時《とうじ》名代《なだい》の孝行娘《こうこうむすめ》、たとい若旦那《わかだんな》が、百|日《にち》お通《かよ》いなすっても、こればっかりは失礼《しつれい》ながら、及《およ》ばぬ鯉《こい》の滝登《たきのぼ》りで。……」
「松《まつ》っぁん」
「へえ」
「帰《かえ》っとくれ」
「えッ」
「あたしゃ何《な》んだか頭痛《ずつう》がして来《き》た。もうお前《まえ》さんと、話《はなし》をするのもいやンなったよ」
「そ、そんな御無態《ごむたい》をおいいなすっちゃ。――」
「どうせあたしゃ無態《むたい》さ。――この煙草入《たばこいれ》もお前《まえ》に上《あ》げるから、とっとと帰《かえ》ってもらいたいよ」
三日月《みかづき》に、谷中《やなか》の夜道《よみち》は暗《くら》かった。その暗《くら》がりをただ独《ひと》り鳴《な》く、蟋蟀《こおろぎ》を踏《ふ》みつぶす程《ほど》、やけな歩《あゆ》みを続《つづ》けて行《い》く、若旦那《わかだんな》徳太郎《とくたろう》の頭《あたま》の中《なか》は、おせんの姿《すがた》で一|杯《ぱい》であった。
五
「ふん、何《な》んて馬鹿気《ばかげ》た話《はなし》なんだろう。こっちからお頼《たの》み申《もう》して来《き》てもらった訳《わけ》じゃなし。若旦那《わかだんな》が手《て》を合《あわ》せて、たっての頼《たの》みだというからこそ、連《つ》れて来《き》てやったんじゃねえか、そいつを、自分《じぶん》からあわてちまってよ。垣根《かきね》の中《なか》へ突《つ》ンのめったばっかりに、ゆっくり見物《けんぶつ》出来《でき》るはずのおせんの裸《はだか》がちらッとしきゃのぞけなかったんだ。――面白《おも
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