おせん
邦枝完二
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)虫《むし》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)二|丁《ちょう》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「やまいだれ+票」、第3水準1−88−55]
−−
虫《むし》
一
「おッとッとッと。そう乗《のり》出《だ》しちゃいけない。垣根《かきね》がやわ[#「やわ」に傍点]だ。落着《おちつ》いたり、落着《おちつ》いたり」
「ふふふ。あわててるな若旦那《わかだんな》、あっしよりお前《まえ》さんでげしょう」
「叱《し》ッ、静《しず》かに。――」
「こいつァまるであべこべだ。どっちが宰領《さいりょう》だかわかりゃァしねえ」
が、それでも互《たがい》の声《こえ》は、ひそやかに触《ふ》れ合《あ》う草《くさ》の草《は》ずれよりも低《ひく》かった。
「まだかの」
「まだでげすよ」
「じれッてえのう、向《むこ》う臑《ずね》を蚊《か》が食《く》いやす」
「御辛抱《ごしんぼう》、御辛抱《ごしんぼう》。――」
谷中《やなか》の感応寺《かんおうじ》を北《きた》へ離《はな》れて二|丁《ちょう》あまり、茅葺《かやぶき》の軒《のき》に苔《こけ》持《も》つささやかな住居《すまい》ながら垣根《かきね》に絡《から》んだ夕顔《ゆうがお》も白《しろ》く、四五|坪《つぼ》ばかりの庭《にわ》一|杯《ぱい》に伸《の》びるがままの秋草《あきぐさ》が乱《みだ》れて、尾花《おばな》に隠《かく》れた女郎花《おみなえし》の、うつつともなく夢見《ゆめみ》る風情《ふぜい》は、近頃《ちかごろ》評判《ひょうばん》の浮世絵師《うきよえし》鈴木晴信《すずきはるのぶ》が錦絵《にしきえ》をそのままの美《うつく》しさ。次第《しだい》に冴《さ》える三日月《みかづき》の光《ひか》りに、あたりは漸《ようや》く朽葉色《くちばいろ》の闇《やみ》を誘《さそ》って、草《くさ》に鳴《な》く虫《むし》の音《ね》のみが繁《しげ》かった。
「松《まっ》つぁん」
「へえ」
「たしかにここに、間違《まちが》いはあるまいの」
「冗談《じょうだん》じゃござんせんぜ、若旦那《わかだんな》。こいつを間違《まちが》えたんじゃ、松《まつ》五|郎《ろう》めくら犬《いぬ》にも劣《おと》りやさァ」
「だってお前《まえ》、肝腎《かんじん》の弁天様《べんてんさま》は、かたちどころか、影《かげ》も見《み》せやしないじゃないか」
「御辛抱《ごしんぼう》、御辛抱《ごしんぼう》、急《せ》いちゃァ事《こと》を仕損《しそん》じやす」
「ここへ来《き》てから、もう半時近《はんときちか》くも経《た》ってるんだよ。それだのにお前《まえ》。――」
「でげすから、あっしは浅草《おくやま》を出《で》る時《とき》に、そう申《もう》したじゃござんせんか。松《まつ》の位《くらい》の太夫《たゆう》でも、花魁《おいらん》ならば売《う》り物《もの》買《か》い物《もの》。耳《みみ》のほくろはいうに及《およ》ばず、足《あし》の裏《うら》の筋数《すじかず》まで、読《よ》みたい時《とき》に読《よ》めやすが、きょうのはそうはめえりやせん。半時《はんとき》はおろか、事《こと》によったら一時《いっとき》でも二時《ふたとき》でも、垣根《かきね》のうしろにしゃがんだまま、お待《ま》ちンならなきゃいけませんと、念《ねん》をお押《お》し申《もう》した時《とき》に、若旦那《わかだんな》、あなたは何《な》んと仰《おっ》しゃいました。当時《とうじ》、江戸《えど》の三|人女《にんおんな》の随《ずい》一と名《な》を取《と》った、おせんの肌《はだ》が見《み》られるなら、蚊《か》に食《く》われようが、虫《むし》に刺《さ》されようが、少《すこ》しも厭《いと》うことじゃァない、好《す》きな煙草《たばこ》も慎《つつし》むし、声《こえ》も滅多《めった》に出《だ》すまいから、何《な》んでもかんでもこれから直《す》ぐに連《つ》れて行《い》け。その換《かわ》りお礼《れい》は二|分《ぶ》まではずもうし、羽織《はおり》もお前《まえ》に進呈《しんてい》すると、これこの通《とお》りお羽織《はおり》まで下《くだ》すったんじゃござんせんか。それだのに、まだほんの、半時《はんとき》経《た》つか経《た》たないうちから、そんな我儘《わがまま》をおいいなさるんじゃ、お約束《やくそく》が違《ちが》いやす。頂戴物《ちょうだいもの》は、みんなお返《かえ》しいたしやすから、どうか松《まつ》五|郎《ろう》に、お暇《ひま》をおくんなさいやして。……」
「おっとお待《ま》ち。あたしゃ何《なに》も、辛抱《しんぼう》しないたいやァしないよ。ええ、辛抱《しんぼう》しますとも、夜中《よなか》ンなろうが、夜《よ》が明《あ》けようが、ここは滅多《めった》に動《うご》くンじゃないけれど、お前《まえ》がもしか門違《かどちが》いで、おせんの家《うち》でもない人《ひと》の……」
「そ、それがいけねえというんで。……いくらあっしが酔狂《すいきょう》でも、若旦那《わかだんな》を知《し》らねえ家《いえ》の垣根《かきね》まで、引《ひ》っ張《ぱ》って来《く》る筈《はず》ァありませんや。松《まつ》五|郎《ろう》自慢《じまん》の案内役《あんないやく》、こいつばかりゃ、たとえ江戸《えど》がどんなに広《ひろ》くッても――」
「叱《し》ッ」
「うッ」
帯《おび》ははやりの呉絽《ごろ》であろう。引《ひ》ッかけに、きりりと結《むす》んだ立姿《たちすがた》、滝縞《たきじま》の浴衣《ゆかた》が、いっそ背丈《せたけ》をすっきり見《み》せて、颯《さっ》と簾《すだれ》の片陰《かたかげ》から縁先《えんさき》へ浮《う》き出《で》た十八|娘《むすめ》。ぽつんと一|本《ぽん》咲《さ》き初《はじ》めた、桔梗《ききょう》の花《はな》のそれにも増《ま》して、露《つゆ》は紅《べに》より濃《こま》やかであった。
明和《めいわ》戌年《いぬどし》秋《あき》八|月《がつ》、そよ吹《ふ》きわたるゆうべの風《かぜ》に、静《しず》かに揺《ゆ》れる尾花《おばな》の波路《なみじ》。娘《むすめ》の手《て》から、団扇《うちわ》が庭《にわ》にひらりと落《お》ちた。
二
顔《かお》を掠《かす》めて、ひらりと落《お》ちた桔梗《ききょう》の花《はな》のひとひらにさえ、音《おと》も気遣《きづか》う心《こころ》から、身動《みうご》きひとつ出来《でき》ずにいた、日本橋通《にほんばしとおり》油町《あぶらちょう》の紙問屋《かみどんや》橘屋徳兵衛《たちばなやとくべえ》の若旦那《わかだんな》徳太郎《とくたろう》と、浮世絵師《うきよえし》春信《はるのぶ》の彫工《ほりこう》松《まつ》五|郎《ろう》の眼《め》は、釘着《くぎづ》けにされたように、夕顔《ゆうがお》の下《した》から離《はな》れなかった。
が、よもやおのが垣根《かきね》の外《そと》に、二人《ふたり》の男《おとこ》が示《しめ》し合《あわ》せて、眼《め》をすえていようとは、夢想《むそう》もしなかったのであろう。娘《むすめ》は落《お》ちた団扇《うちわ》を流《なが》し目《め》に、呉絽《ごろ》の帯《おび》に手《て》をかけると、廻《まわ》り燈籠《どうろう》の絵《え》よりも速《はや》く、きりりと廻《まわ》ったただずまい、器用《きよう》に帯《おび》から脱《ぬ》け出《だ》して、さてもう一|廻《まわ》り、ゆるりと廻《まわ》った爪先《つまさき》を縁《えん》に停《とど》めたその刹那《せつな》、俄《にわか》に音《ね》を張《は》る鈴虫《すずむし》に、浴衣《ゆかた》を肩《かた》から滑《すべ》らせたまま、半身《はんしん》を縁先《えんさき》へ乗《の》りだした。
「南無《なむ》大願成就《だいがんじょうじゅ》。――」
「叱《し》ッ」
あとには再《ふたた》び虫《むし》の声《こえ》。
京師《けいし》の、花《はな》を翳《かざ》して過《すご》す上臈《じょうろう》達《たち》はいざ知《し》らず、天下《てんか》の大将軍《だいしょうぐん》が鎮座《ちんざ》する江戸《えど》八百八|町《ちょう》なら、上《うえ》は大名《だいみょう》の姫君《ひめぎみ》から、下《した》は歌舞《うたまい》の菩薩《ぼさつ》にたとえられる、よろず吉原《よしわら》千の遊女《ゆうじょ》をすぐっても、二人《ふたり》とないとの評判娘《ひょうんばんむすめ》。下谷《したや》谷中《やなか》の片《かた》ほとり、笠森稲荷《かさもりいなり》の境内《けいだい》に、行燈《あんどん》懸《か》けた十一|軒《けん》の水茶屋娘《みずちゃやむすめ》が、三十|余人《よにん》束《たば》になろうが、縹緻《きりょう》はおろか、眉《まゆ》一つ及《およ》ぶ者《もの》がないという、当時《とうじ》鈴木春信《すずきはるのぶ》が一|枚刷《まいずり》の錦絵《にしきえ》から、子供達《こどもたち》の毬唄《まりうた》にまで持《も》て囃《はや》されて、知《し》るも知《し》らぬも、噂《うわさ》の花《はな》は咲《さ》き放題《ほうだい》、かぎ屋《や》のおせんならでは、夜《よ》も日《ひ》も明《あ》けぬ煩悩《ぼんのう》は、血気盛《けっきざか》りの若衆《わかしゅう》ばかりではないらしく、何《なに》ひとつ心願《しんがん》なんぞのありそうもない、五十を越《こ》した武家《ぶけ》までが、雪駄《せった》をちゃらちゃらちゃらつかせてお稲荷詣《いなりもう》でに、御手洗《みたらし》の手拭《てぬぐい》は、常《つね》に乾《かわ》くひまとてないくらいであった。
橘屋《たちばなや》の若旦那《わかだんな》徳太郎《とくたろう》も、この例《れい》に漏《も》れず、日《ひ》に一|度《ど》は、判《はん》で捺《お》したように帳場格子《ちょうばごうし》の中《なか》から消《き》えて、目指《めざ》すは谷中《やなか》の笠森様《かさもりさま》、赤《あか》い鳥居《とりい》のそれならで、赤《あか》い襟《えり》からすっきりのぞいたおせんが雪《ゆき》の肌《はだ》を、拝《おが》みたさの心願《しんがん》に外《ほか》ならならなかったのであるが、きょうもきょうとて浅草《あさくさ》の、この春《はる》死《し》んだ志道軒《しどうけん》の小屋前《こやまえ》で、出会頭《であいがしら》に、ばったり遭《あ》ったのが彫工《ほりこう》の松《まつ》五|郎《ろう》、それと察《さっ》した松《まつ》五|郎《ろう》から、おもて飾《かざ》りを見《み》るなんざ大野暮《おおやぼ》の骨頂《こっちょう》でげす。おせんの桜湯《さくらゆ》飲《の》むよりも、帯紐《おびひも》解《と》いた玉《たま》の肌《はだ》が見《み》たかァござんせんかとの、思《おも》いがけない話《はなし》を聞《き》いて、あとはまったく有頂天《うちょうてん》、どこだどこだと訪《たず》ねるまでもなく、二|分《ぶ》の礼《れい》と着ていた羽織《はおり》を渡《わた》して、無我夢中《むがむちゅう》は、やがてこの垣根《かきね》の外《そと》となった次第《しだい》。――百|匹《ぴき》の蚊《か》が一|度《ど》に臑《すね》にとまっても、痛《いた》さもかゆさも感《かん》じない程《ほど》、徳太郎《とくたろう》の眼《め》は、野犬《やけん》のようにすわっていた。
「若旦那《わかだんな》」
「黙《だま》って。――」
「黙《だま》ってじゃァござんせん。もっと低《ひく》くおなんなすって。――」
「判《わか》ってるよ」
「そんならお速《はや》く」
「ええもういらぬお接介《せっかい》。――」
おおかた、縁《えん》から上手《かみて》へ一|段《だん》降《お》りて戸袋《とぶくろ》の蔭《かげ》には既《すで》に盥《たらい》が用意《ようい》されて、釜《かま》で沸《わか》した行水《ぎょうずい》の湯《ゆ》が、かるい渦《うず》を巻《ま》いているのであろうが、上半身《じょうはんしん》を現《あら》わにしたまま、じっと虫《むし》の音《ね》に聴《き》きいっているおせんは、容易《ようい》に立《た》とうとしないばかりか、背《せ
次へ
全27ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
邦枝 完二 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング