し》れぬの。堺屋《さかいや》でもどっちでも、早《はや》く来《く》ればいいのに。――」
 濡《ぬ》れた手拭《てぬぐい》を、もう一|度《ど》丁寧《ていねい》に絞《しぼ》った春信《はるのぶ》は、口《くち》のうちでこう呟《つぶや》きながら、おもむろに縁先《えんさき》の方《ほう》へ歩《あゆ》み寄《よ》った。すると、その額《ひたい》の汗《あせ》を拭《ふ》きながら駆《か》け込《こ》んで来《き》たのは、摺師《すりし》の八五|郎《ろう》であった。
「行《い》ってめえりやした」
「御苦労《ごくろう》、御苦労《ごくろう》。おせんはいたかの」
「へえ。居《お》りやした。でげすが師匠《ししょう》、世《よ》の中《なか》にゃ馬鹿《ばか》な野郎《やろう》が多《おお》いのに驚《おどろ》きやしたよ。あっしが向《むこ》うへ着《つ》いたのは、まだ六つをちっと回《まわ》ったばかりでげすのに、もうお前《まえ》さん、かぎ屋《や》の前《まえ》にゃ、人《ひと》が束《たば》ンなってるじゃござんせんか。それも、女《おんな》一人《ひとり》いるんじゃねえ。みんな、おいらこそ江戸《えど》一|番《ばん》の色男《いろおとこ》だと、いわぬばかりの顔《
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