笠森《かさもり》おせんの、襟《えり》を剃《あた》るなァおいらより外《ほか》にゃ、広《ひろ》い江戸中《えどじゅう》に二人《ふたり》たねえんだ」
伝吉《でんきち》が駕籠《かご》の中《なか》で鼻《はな》の頭《あたま》を引《ひ》ッこすってのひとり啖呵《たんか》も、駕籠屋《かごや》には少《すこ》しの効《き》き目《め》もないらしく、駕籠《かご》の歩《あゆ》みは、依然《いぜん》として緩《ゆる》やかだった。
三
床屋《とこや》の伝吉《でんきち》が、笠森《かさもり》の境内《けいだい》へ着《つ》いたその時分《じぶん》、春信《はるのぶ》の住居《すまい》で、菊之丞《きくのじょう》の急病《きゅうびょう》を聞《き》いたおせんは無我夢中《むがむちゅう》でおのが家《いえ》の敷居《しきい》を跨《また》いでいた。
「お母《っか》さん」
「おやおまえ、どうしたというの、何《なに》かお見世《みせ》にあったのかい」
今《いま》ごろ帰《かえ》って来《こ》ようとは、夢《ゆめ》にも考《かんが》えていなかったお岸《きし》は、慌《あわただ》しく駆《か》け込《こ》んで来《き》たおせんの姿《すがた》を見《み》ると、まず、怪
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