》当《あ》てさせようと、松江《しょうこう》が春信《はるのぶ》と懇意《こんい》なのを幸《さいわ》い、善《ぜん》は急《いそ》げと、早速《さっそく》きのうここへ訪《たず》ねさせての、きょうであった。
「太夫《たゆう》、お待遠《まちどお》さまでござんしょうが、どうかこちらへおいでなすって、お茶《ちゃ》でも召上《めしあが》って、お待《ま》ちなすっておくんなまし」
藤吉《とうきち》にも、何《な》んで師匠《ししょう》が堺屋《さかいや》を待《ま》たせるのか、一|向《こう》合点《がってん》がいかなかったが、張《は》り詰《つ》めていた気持《きもち》が急《きゅう》に緩《ゆる》んだように、しょんぼりと池《いけ》を見詰《みつ》めて立《た》っている後姿《うしろすがた》を見《み》ると、こういって声《こえ》をかけずにはいられなかった。
「へえ、おおきに。――」
「太夫《たゆう》は、おせんちゃんには、まだお会《あ》いなすったことがないんでござんすか」
「へえ、笠森様《かさもりさま》のお見世《みせ》では、お茶《ちゃ》を戴《いただ》いたことがおますが、先様《さきさま》は、何《なに》を知《し》ってではござりますまい。――したが若衆《わかしゅう》さん。おせんさんは、もはやお見《み》えではおますまいかな」
「つい今《いま》し方《がた》。――」
「では何《なに》か、絵《え》でも習《なろ》うていやはるのでは。――」
「さァ、大方《おおかた》そんなことでげしょうが、どっちにしても長《なが》いことじゃござんすまい。そこは日《ひ》が当《あた》りやす。こっちへおいでなすッて。……」
ふと踵《くびす》を返《かえ》して、二|足《あし》三|足《あし》、歩《ある》きかかった時《とき》だった。隅《すみ》の障子《しょうじ》を静《しず》かに開《あ》けて、庭《にわ》に降《お》り立《た》った春信《はるのぶ》は、蒼白《そうはく》の顔《かお》を、振袖姿《ふりそですがた》の松江《しょうこう》の方《ほう》へ向《む》けた。
「太夫《たゆう》」
「おお、これはお師匠《ししょう》さんは。早《はよう》からお邪間《じゃま》して、えろ済《す》みません」
「済《す》まないのは、お前《まえ》さんよりこっちのこと、折角《せっかく》眠《ねむ》いところを、早起《はやお》きをさせて、わざわざ来《き》てもらいながら、肝腎《かんじん》のおせんが。――」
「おせんさんが、なんぞしやはりましたか」
「急病《きゅうびょう》での」
「えッ」
「血《ち》の道《みち》でもあろうが、ここへ来《く》るなり頭痛《ずつう》がするといって、ふさぎ込《こ》んでしまったまま、いまだに顔《かお》も挙《あ》げない始末《しまつ》、この分《ぶん》じゃ、半時《はんとき》待《ま》ってもらっても、今朝《けさ》は、話《はなし》は出来《でき》まいと思《おも》っての、お気《き》の毒《どく》だが、またあらためて、会《あ》ってやっておもらい申《もう》すより、仕方《しかた》がないじゃなかろうかと、実《じつ》は心配《しんぱい》している訳《わけ》だが。……」
「それはまア」
「のう太夫《たゆう》。お前《まえ》さん、詫《わび》はあたしから幾重《いくえ》にもしようから、きょうはこのまま、帰《かえ》っておくんなさるまいか」
「それァもう、帰《かえ》ることは、いつでも帰《かえ》りますけれど、おせんさんが急病《きゅうびょう》とは、気《き》がかりでおますさかい。……」
「いや、気《き》に病《や》むほどのことでもなかろうが、何《なん》せ若《わか》い女《おんな》の急病《きゅうびょう》での。ちっとばかり、朝《あさ》から世間《せけん》が暗《くら》くなったような気《き》がするのさ」
「へえ」
春信《はるのぶ》の眼《め》は、松江《しょうこう》を反《そ》れて、地《ち》に曳《ひ》く萩《はぎ》の葉《は》に移《うつ》っていた。
雨《あめ》
一
「おい坊主《ぼうず》、火鉢《ひばち》の火《ひ》が消《き》えちゃってるぜ。ぼんやりしてえちゃ困《こま》るじゃねえか」
浜町《はまちょう》の細川邸《ほそかわてい》の裏門前《うらもんまえ》を、右《みぎ》へ折《お》れて一|町《ちょう》あまり、角《かど》に紺屋《こうや》の干《ほ》し場《ば》を見《み》て、伊勢喜《いせき》と書《か》いた質屋《しちや》の横《よこ》について曲《まが》がった三|軒目《げんめ》、おもてに一|本柳《ぽんやなぎ》が長《なが》い枝《えだ》を垂《た》れたのが目印《めじるし》の、人形師《にんぎょうし》亀岡由斎《かめおかゆうさい》のささやかな住居《すまい》。
まだ四十を越《こ》していくつにもならないというのが、一|見《けん》五十四五に見《み》える。髷《まげ》も白髪《しらが》もおかまいなし、床屋《とこや》の鴨居《かもい》は、もう二|月《つき》も潜《くぐ》
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