いえ、何《なに》も訳《わけ》はござんせぬ」
「隠《かく》すにゃ当《あた》らないから、有様《ありよう》にいって見《み》な、事《こと》と次第《しだい》に因《よ》ったら、堺屋《さかいや》は、このままお前《まえ》には会《あわ》せずに、帰《かえ》ってもらうことにする」
「そんなら、あたしの願《ねが》いを聞《き》いておくんなさいますか」
「聞《き》きもする。かなえもする。だが、その訳《わけ》は聞《き》かしてもらうぜ」
「さァその訳《わけ》は。――」
「まだ隠《かく》しだてをするつもりか。あくまで聞《き》かせたくないというなら、聞《き》かずに済《す》ませもしようけれど、そのかわりおいらはもうこの先《さき》、金輪際《こんりんざい》、お前《まえ》の絵《え》は描《か》かないからそのつもりでいるがいい」
「まァお師匠《ししょう》さん」
「なァにいいやな。笠森《かさもり》のおせんは、江戸《えど》一|番《ばん》の縹緻佳《きりょうよ》しだ。おいらが拙《まず》い絵《え》なんぞに描《か》かないでも、客《きゃく》は御府内《ごふない》の隅々《すみずみ》から、蟻《あり》のように寄《よ》ってくるわな。――いいたくなけりゃ、聞《き》かずにいようよ」
いたずらに、もてあそんでいた三|味線《みせん》の、いとがぽつんと切《き》れたように、おせんは身内《みうち》に積《つも》る寂《さび》しさを覚《おぼ》えて、思《おも》わず瞼《まぶた》が熱《あつ》くなった。
「お師匠《ししょう》さん、堪忍《かんにん》しておくんなさい。あたしゃ、お母《かあ》さんにもいうまいと、固《かた》く心《こころ》にきめていたのでござんすが、もう何事《なにごと》も申《もう》しましょう。どっと笑《わら》っておくんなさいまし」
「おお、ではやっぱり何《なに》かの訳《わけ》があって。……」
「あい、あたしゃあの、浜村屋《はまむらや》の太夫《たゆう》さんが、死《し》ぬほど好《す》きなんでござんす」
「えッ。菊之丞《きくのじょう》に。――」
「あい。おはずかしゅうござんすが。……」
消えも入《い》りたいおせんの風情《ふぜい》は、庭《にわ》に咲《さ》く秋海棠《しゅうかいどう》が、なまめき落《お》ちる姿《すがた》をそのまま悩《なや》ましさに、面《おもて》を袂《たもと》におおい隠《かく》した。
じッと、釘《くぎ》づけにされたように、春信《はるのぶ》の眼《め》は、おせんの襟脚《えりあし》から動《うご》かなかった。が、やがて静《しず》かにうなずいたその顔《かお》には、晴《は》れやかな色《いろ》が漂《ただよ》っていた。
「おせん」
「あい」
「よくほれた」
「えッ」
「当代《とうだい》一の若女形《わかおやま》、瀬川菊之丞《せがわきくのじょう》なら、江戸《えど》一|番《ばん》のお前《まえ》の相手《あいて》にゃ、少《すこ》しの不足《ふそく》もあるまいからの。――判《わか》った。相手《あいて》がやっぱり役者《やくしゃ》とあれば、堺屋《さかいや》に会《あ》うのは気《き》が差《さ》そう。こりゃァ何《な》んとでもいって断《ことわ》るから、安心《あんしん》するがいい」
八
勢《きお》い込《こ》んで駕籠《かご》で乗《の》り着《つ》けた中村松江《なかむらしょうこう》は、きのうと同《おな》じように、藤吉《とうきち》に案内《あんない》されたが、直《す》ぐ様《さま》通《とお》してもらえるはずの画室《がしつ》へは、何《なに》やら訳《わけ》があって入《はい》ることが出来《でき》ぬところから、ぽつねんと、池《いけ》の近《ちか》くにたたずんだまま、人影《ひとかげ》に寄《よ》って来《く》る鯉《こい》の動《うご》きをじっと見詰《みつ》めていた。
師《し》の歌右衛門《うたえもん》を慕《した》って江戸《えど》へ下《くだ》ってから、まだ足《あし》かけ三|年《ねん》を経《へ》たばかりの松江《しょうこう》が、贔屓筋《ひいきすじ》といっても、江戸役者《えどやくしゃ》ほどの数《かず》がある訳《わけ》もなく、まして当地《とうち》には、当代随《とうだいずい》一の若女形《わかおやま》といわれる、二|代目《だいめ》瀬川菊之丞《せがわきくのじょう》が全盛《ぜんせい》を極《きわ》めていることとて、その影《かげ》は決《けっ》して濃《こ》いものではなかった。が、年《とし》は若《わか》いし、芸《げい》は達者《たっしゃ》であるところから、作者《さくしゃ》の中村重助《なかむらじゅうすけ》が頻《しき》りに肩《かた》を入《い》れて、何《なに》か目先《めさき》の変《かわ》った狂言《きょうげん》を、出《だ》させてやりたいとの心《こころ》であろう。近頃《ちかごろ》春信《はるのぶ》の画《え》で一|層《そう》の評判《ひょうばん》を取《と》った笠森《かさもり》おせんを仕組《しく》んで、一|番《ばん
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