ったことがない程《ほど》の、垢《あか》にまみれたうす汚《ぎた》なさ。名人《めいじん》とか上手《じょうず》とか評判《ひょうばん》されているだけに、坊主《ぼうず》と呼《よ》ぶ十七八の弟子《でし》の外《ほか》は、猫《ねこ》の子《こ》一|匹《ぴき》もいない、たった二人《ふたり》の暮《くら》しであった。
「おめえ、いってえ弟子《でし》に来《き》てから、何年《なんねん》経《た》つと思《おも》っているんだ」
「へえ」
「へえじゃねえぜ。人形師《にんぎょうし》に取《と》って、胡粉《ごふん》の仕事《しごと》がどんなもんだぐれえ、もうてえげえ判《わか》っても、罰《ばち》は当《あた》るめえ。この雨《あめ》だ。愚図々々《ぐずぐず》してえりゃ、湿気《しっけ》を呼《よ》んで、みんなねこ[#「ねこ」に傍点]ンなっちまうじゃねえか。速《はや》くおこしねえ」
「へえ」
「それから何《な》んだぜ。火がおこったら、直《す》ぐに行燈《あんどん》を掃除《そうじ》しときねえよ。こんな日《ひ》ァ、いつもより日《ひ》の暮《く》れるのが、ぐっと早《はえ》えからの」
「へえ」
「ふん。何《なに》をいっても、張合《はりあ》いのねえ野郎《やろう》だ。飯《めし》は腹《はら》一|杯《ぱい》食《く》わせてあるはずだに。もっとしっかり返事《へんじ》をしねえ」
「かしこまりました」
「糠《ぬか》に釘《くぎ》ッてな、おめえのこった。――火のおこるまで一|服《ぷく》やるから、その煙草入《たばこいれ》を、こっちへよこしねえ」
「へえ」
「なぜ煙管《きせる》を取《と》らねえんだ」
「へえ」
「それ、蛍火《ほたるび》ほどの火《ひ》もねえじゃねえか。何《な》んで煙草《たばこ》をつけるんだ」
相手《あいて》は黙々《もくもく》とした少年《しょうねん》だが、由斎《ゆうさい》は、たとえにある箸《はし》の揚《あ》げおろしに、何《なに》か小言《こごと》をいわないではいられない性分《しょうぶん》なのであろう。殆《ほと》んど立続《たてつづ》けに口小言《くちこごと》をいいながら、胡坐《あぐら》の上《うえ》にかけた古《ふる》い浅黄《あさぎ》のきれをはずすと、火口箱《ほぐちばこ》を引《ひ》き寄《よ》せて、鉄《てつ》の長煙管《ながきせる》をぐつ[#「ぐつ」に傍点]と銜《くわ》えた。
勝手元《かってもと》では、頻《しき》りにばたばたと七|輪《りん》の下《した》を煽《あお》ぐ、団扇《うちわ》の音《おと》が聞《きこ》えていた。
その団扇《うちわ》の音《おと》を、じりじりと妙《みょう》にいら立《だ》つ耳《みみ》で聞《き》きながら、由斎《ゆうさい》は前《まえ》に立《た》てかけている、等身大《とうしんだい》に近《ちか》い女《おんな》の人形《にんぎょう》を、睨《にら》めるように眺《なが》めていたが、ふと何《なに》か思《おも》い出《だ》したのであろう。あたり憚《はばか》らぬ声《こえ》で勝手元《かってもと》へ向《むか》って叫《さけ》んだ。
「坊主《ぼうず》。坊主《ぼうず》」
「へえ」
「おめえ、今朝《けさ》面《つら》を洗《あら》ったか」
「へえ」
「嘘《うそ》をつけ。面《つら》を洗《あら》った奴《やつ》が、そんな粗相《そそう》をするはずァなかろう。ここへ来《き》て、よく人形《にんぎょう》の足《あし》を見《み》ねえ。甲《こう》に、こんなに蝋《ろう》が垂《た》れているじゃねえか」
恐《おそ》る恐《おそ》る仕事場《しごとば》へ戻《もど》った。坊主《ぼうず》の足《あし》はふるえていた。
「こいつァおめえの仕事《しごと》だな」
「知《し》りません」
「知《し》らねえことがあるもんか。ゆうべ遅《おそ》く仕事場《しごとば》へ蝋燭《ろうそく》を持《も》って這入《はい》って来《き》たなァ、おめえより外《ほか》にねえ筈《はず》だぜ。こいつァただの人形《にんぎょう》じゃねえ。菊之丞《きくのじょう》さんの魂《たましい》までも彫《ほ》り込《こ》もうという人形《にんぎょう》だ。粗相《そそう》があっちゃァならねえと、あれ程《ほど》いっておいたじゃねえか」
二
廂《ひさし》の深《ふか》さがおいかぶさって、雨《あめ》に煙《けむ》った家《いえ》の中《なか》は、蔵《くら》のように手許《てもと》が暗《くら》く、まだ漸《ようや》く石町《こくちょう》の八つの鐘《かね》を聞《き》いたばかりだというのに、あたりは行燈《あんどん》がほしいくらい、鼠色《ねずみいろ》にぼけていた。
軒《のき》の樋《とい》はここ十|年《ねん》の間《あいだ》、一|度《ど》も換《か》えたことがないのであろう。竹《たけ》の節々《ふしぶし》に青苔《あおこけ》が盛《も》り上《あが》って、その破《わ》れ目《め》から落《お》ちる雨水《あまみず》が砂時計《すなどけい》の砂《すな》が目《め》もりを落《お》ちる
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