ばい》も換《か》えて待《ま》ちかねだぜ」
「おっと、しまった」
「おせんちゃん。少《すこ》しも速《はや》く、急《いそ》いだ、急《いそ》いだ」
「ほほほほ。八つぁんがまた、おどけた物《もの》のいいようは。……」
 駕籠《かご》を帰《かえ》したおせんの姿《すがた》は、小溝《こどぶ》へ架《か》けた土橋《どばし》を渡《わた》って、逃《のが》れるように枝折戸《しおりど》の中《なか》へ消《き》えて行《い》った。
「ふん、八五|郎《ろう》の奴《やつ》、余計《よけい》な真似《まね》をしやァがる。おせんちゃんの案内役《あんないやく》は、いっさいがっさい、おいらときまってるんだ。――よし、あとで堺屋《さかいや》の太夫《たゆう》が来《き》たら、その時《とき》あいつに辱《はじ》をかかせてやる」
 手《て》の内《うち》の宝《たから》を奪《うば》われでもしたように、藤吉《とうきち》は地駄《じだ》ン駄《だ》踏《ふ》んで、あとから、土橋《どばし》をひと飛《と》びに飛《と》んで行《い》った。
 鉤《かぎ》なりに曲《まが》った縁先《えんさき》では、師匠《ししょう》の春信《はるのぶ》とおせんとが、既《すで》に挨拶《あいさつ》を済《す》ませて、池《いけ》の鯉《こい》に眼《め》をやりながら、何事《なにごと》かを、声《こえ》をひそめて話《はな》し合《あ》っていた。
「八つぁん、ちょいと来《き》てくんな」
「何《な》んだ藤《とう》さん」
 立《た》って来《き》た八五|郎《ろう》を、睨《にら》めるようにして、藤吉《とうきち》は口《くち》を尖《とが》らせた。
「お前《まえ》、あとから誰《だれ》が来《く》るか、知《し》ってるかい」
「知《し》らねえ」
「それ見《み》な。知《し》らねえで、よくそんなお接介《せっかい》が出来《でき》たもんだの」
「お接介《せっかい》たァ何《な》んのこッた」
「おせんちゃんを、先《さき》に立《た》って連《つ》れてくなんざ、お接介《せっかい》だよ」
「冗談《じょうだん》じゃねえ。おせんちゃんは、師匠《ししょう》に頼《たの》まれて、おいらが呼《よ》びに行《い》ったんだぜ。――おめえはまだ、顔《かお》を洗《あら》わねえんだの」
 顔《かお》はとうに洗《あら》っていたが、藤吉《とうきち》の眼頭《めがしら》には、目脂《めやに》が小汚《こぎた》なくこすり付《つ》いていた。

    六

 赤《あか》とんぼが障子《しょうじ》へくっきり影《かげ》を映《うつ》した画室《がしつ》は、金《きん》の砂子《すなこ》を散《ち》らしたように明《あか》るかった。
 広々《ひろびろ》と庭《にわ》を取《と》ってはあるが、僅《わず》かに三|間《ま》を数《かぞ》えるばかりの、茶室《ちゃしつ》がかった風流《ふうりゆう》の住居《すまい》は、ただ如何《いか》にも春信《はるのぶ》らしい好《この》みにまかせて、手《て》いれが行《ゆ》き届《とど》いているというだけのこと、諸大名《しょだいみょう》の御用絵師《ごようえし》などにくらべたら、まことに粗末《そまつ》なものであった。
 その画室《がしつ》の中《なか》ほどに、煙草盆《たばこぼん》をはさんで、春信《はるのぶ》とおせんとが対座《たいざ》していた。おせんの初《うぶ》な心《こころ》は、春信《はるのぶ》の言葉《ことば》にためらいを見《み》せているのであろう。うつ向《む》いた眼許《めもと》には、ほのかな紅《べに》を差《さ》して、鬢《びん》の毛《け》が二|筋《すじ》三|筋《すじ》、夢見《ゆめみ》るように頬《ほほ》に乱《みだ》れかかっていた。
「どうだの、これは別《べつ》に、おいらが堺屋《さかいや》から頼《たの》まれた訳《わけ》ではないが、何《な》んといっても中村松江《なかむらしょうこう》なら、当時《とうじ》押《お》しも押《お》されもしない、立派《りっぱ》な太夫《たゆう》。その堺屋《さかいや》が秋《あき》の木挽町《こびきちょう》で、お前《まえ》のことを重助《じゅうすけ》さんに書《か》きおろさせて、舞台《いた》に上《の》せようというのだから、まず願《ねが》ってもないもっけ[#「もっけ」に傍点]の幸《さいわ》い。いやの応《おう》のということはなかろうじゃないか」
「はい、そりゃァもう、あたしに取《と》っては勿体《もったい》ないくらいの御贔屓《ごひいき》、いや応《おう》いったら、眼《め》がつぶれるかも知《し》れませぬが。……」
「それなら何《な》んでの」
「お師匠《ししょう》さん、堪忍《かんにん》しておくんなさい。あたしゃ知《し》らない役者衆《やくしゃしゅう》と、差《さ》しで会《あ》うのはいやでござんす」
「はッはッは、何《なに》かと思《おも》ったら、いつもの馬鹿気《ばかげ》たはにかみからか。ここへ堺屋《さかいや》を招《よ》んだのは、何《なに》もお前《まえ》と差《さ
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