し》れぬの。堺屋《さかいや》でもどっちでも、早《はや》く来《く》ればいいのに。――」
 濡《ぬ》れた手拭《てぬぐい》を、もう一|度《ど》丁寧《ていねい》に絞《しぼ》った春信《はるのぶ》は、口《くち》のうちでこう呟《つぶや》きながら、おもむろに縁先《えんさき》の方《ほう》へ歩《あゆ》み寄《よ》った。すると、その額《ひたい》の汗《あせ》を拭《ふ》きながら駆《か》け込《こ》んで来《き》たのは、摺師《すりし》の八五|郎《ろう》であった。
「行《い》ってめえりやした」
「御苦労《ごくろう》、御苦労《ごくろう》。おせんはいたかの」
「へえ。居《お》りやした。でげすが師匠《ししょう》、世《よ》の中《なか》にゃ馬鹿《ばか》な野郎《やろう》が多《おお》いのに驚《おどろ》きやしたよ。あっしが向《むこ》うへ着《つ》いたのは、まだ六つをちっと回《まわ》ったばかりでげすのに、もうお前《まえ》さん、かぎ屋《や》の前《まえ》にゃ、人《ひと》が束《たば》ンなってるじゃござんせんか。それも、女《おんな》一人《ひとり》いるんじゃねえ。みんな、おいらこそ江戸《えど》一|番《ばん》の色男《いろおとこ》だと、いわぬばかりの顔《かお》をして、反《そ》りッかえってる野郎《やろう》ぞっきでげさァね。――おせんちゃんにゃ、千|人《にん》の男《おとこ》が首《くび》ッたけンなっても、及《およ》ばぬ鯉《こい》の滝《たき》のぼりだとは、知らねえんだから浅間《あさま》しいや」
「八つぁん。おせんの返事《へんじ》はどうだったんだ。直《す》ぐに来《く》るとか、来《こ》ないとか」
「めえりやすとも。もうおッつけ、そこいらで声《こえ》が聞《きこ》えますぜ」
 八五|郎《ろう》は得意《とくい》そうに小首《こくび》をかしげて、枝折戸《しおりど》の方《ほう》を指《ゆび》さした。

    五

 枝折戸《しおりど》の外《そと》に、外道《げどう》の面《つら》のような顔《かお》をして、ずんぐり立《た》って待《ま》っていた藤吉《とうきち》は、駕籠《かご》の中《なか》からこぼれ出《で》たおせんの裾《すそ》の乱《みだ》れに、今《いま》しもきょろりと、団栗《どんぐり》まなこを見張《みは》ったところだった。
「やッ、おせんちゃん。師匠《ししょう》がさっきから、首《くび》を長《なが》くしてお待《ま》ちかねだぜ」
 朱《しゅ》とお納戸《なんど》の、二こく[#「こく」に傍点]の鼻緒《はなお》の草履《ぞうり》を、後《うしろ》の仙蔵《せんぞう》にそろえさせて、扇《おうぎ》で朝日《あさひ》を避《さ》けながら、静《しず》かに駕籠《かご》を立《た》ち出《で》たおせんは、どこぞ大店《おおだな》の一人娘《ひとりむすめ》でもあるかのように、如何《いか》にも品《ひん》よく落着《おちつ》いていた。
「藤吉《とうきち》さん。ここであたしを、待《ま》ってでござんすかえ」
「そうともさ、肝腎《かんじん》の万年青《おもと》の掃除《そうじ》を半端《はんぱ》でやめて、半時《はんとき》も前《まえ》から、お前《まえ》さんの来《く》るのを待《ま》ってたんだ。――だがおせんちゃん。お前《まえ》は相変《あいかわ》らず、師匠《ししょう》の絵《え》のように綺麗《きれい》だのう」
「おや、朝《あさ》ッからおなぶりかえ」
「なぶるどころか。おいらァ惚《ほ》れ惚《ぼ》れ見《み》とれてるんだ。顔《かお》といい、姿《すがた》といい、お前《まえ》ほどの佳《い》い女《おんな》は江戸中《えどじゅう》探《さが》してもなかろうッて、師匠《ししょう》はいつも口癖《くちぐせ》のようにいってなさるぜ。うちのお鍋《なべ》も女《おんな》なら、おせんちゃんも女《おんな》だが、おんなじ女《おんな》に生《うま》れながら、お鍋《なべ》はなんて不縹緻《ぶきりょう》なんだろう。お鍋《なべ》とはよく名《な》をつけたと、おいらァつくづくあいつの、親父《おやじ》の智恵《ちえ》に感心《かんしん》してるんだが、それと違《ちが》っておせんさんは、弁天様《べんてんさま》も跣足《はだし》の女《おんな》ッぷり。いやもう江戸《えど》はおろか日本中《にほんじゅう》、鉦《かね》と太鼓《たいこ》で探《さが》したって……」
「おいおい藤《とう》さん」
 肩《かた》を掴《つか》んで、ぐいと引《ひ》っ張《ぱ》った。その手《て》で、顔《かお》を逆《さか》さに撫《な》でた八五|郎《ろう》は、もう一|度《ど》帯《おび》を把《と》って、藤吉《とうきち》を枝折戸《しおりど》の内《うち》へ引《ひ》きずり込《こ》んだ。
「何《なに》をするんだ。八つぁん」
「何《なに》もこうありゃァしねえ。つべこべと、余計《よけい》なことをいってねえで、速《はや》くおせんちゃんを、奥《おく》へ案内《あんない》してやらねえか。師匠《ししょう》がもう、茶《ちゃ》を三|杯《
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