さりゃァ、棒鼻《ぼうはな》へ、笠森《かさもり》おせん御用駕籠《ごようかご》とでも、札《ふだ》を建《た》てて行《ゆ》きてえくらいだ」
いうまでもなく、祝儀《しゅうぎ》や酒手《さかて》の多寡《たか》ではなかった。当時《とうじ》江戸女《えどおんな》の人気《にんき》を一人《ひとり》で背負《せお》ってるような、笠森《かさもり》おせんを乗《の》せた嬉《うれ》しさは、駕籠屋仲間《かごやなかま》の誉《ほま》れでもあろう。竹《たけ》も仙蔵《せんぞう》も、金《きん》の延棒《のべぼう》を乗《の》せたよりも腹《はら》は得意《とくい》で一ぱいになっていた。
「こう見《み》や。あすこへ行《い》くなァおせんだぜ」
「おせんだ」
「そうよ。人違《ひとちげ》えのはずはねえ。靨《えくぼ》が立派《りっぱ》な証拠《しょうこ》だて」
「おッと違《ちげ》えねえ。向《むこ》うへ廻《まわ》って見《み》ざァならねえ」
帳場《ちょうば》へ急《いそ》ぐ大工《だいく》であろう。最初《さいしょ》に見《み》つけた誇《ほこ》りから、二人《ふたり》が一|緒《しょ》に、駕籠《かご》の向《むこ》うへかけ寄《よ》った。
四
「風流絵暦所《ふうりゅうえこよみどころ》鈴木春信《すずきはるのぶ》」
水《みず》くきのあとも細々《ほそぼそ》と、流《なが》したように書《か》きつらねた木目《もくめ》の浮《う》いた看板《かんばん》に、片枝折《かたしおり》の竹《たけ》も朽《く》ちた屋根《やね》から柴垣《しばがき》へかけて、葡萄《ぶどう》の蔓《つる》が伸《の》び放題《ほうだい》の姿《すがた》を、三|尺《じゃく》ばかりの流《なが》れに映《うつ》した風雅《ふうが》なひと構《かま》え、お城《しろ》の松《まつ》も影《かげ》を曳《ひ》きそうな、日本橋《にほんばし》から北《きた》へ僅《わずか》に十|丁《ちょう》の江戸《えど》のまん中《なか》に、かくも鄙《ひな》びた住居《すまい》があろうかと、道往《みちゆ》く人《ひと》のささやき交《かわ》す白壁町《しろかべちょう》。夏《なつ》ならば、すいと飛《と》びだす迷《まよ》い蛍《ほたる》を、あれさ待《ま》ちなと、団扇《うちわ》で追《お》い寄《よ》るしなやかな手《て》も見《み》られるであろうが、はや秋《あき》の声《こえ》聞《き》く垣根《かきね》の外《そと》には、朝日《あさひ》を受《う》けた小葡萄《こぶどう》の房《ふさ》が、漸《ようや》く小豆大《あずきだい》のかたちをつらねた影《かげ》を、真下《ました》の流《なが》れに漂《ただよ》わせているばかりであった。
池《いけ》と名付《なづ》ける程《ほど》ではないが、一|坪余《つぼあま》りの自然《しぜん》の水溜《みずたま》りに、十|匹《ぴき》ばかりの緋鯉《ひごい》が数《かぞ》えられるその鯉《こい》の背《せ》を覆《おお》って、なかば花《はな》の散《ち》りかけた萩《はぎ》のうねりが、一叢《ひとむら》ぐっと大手《おおて》を広《ひろ》げた枝《えだ》の先《さき》から、今《いま》しもぽたりと落《お》ちたひとしずく。波紋《はもん》が次第《しだい》に大《おお》きく伸《の》びたささやかな波《なみ》の輪《わ》を、小枝《こえだ》の先《さき》でかき寄《よ》せながら、じっと水《みず》の面《おも》を見詰《みつ》めていたのは、四十五の年《とし》よりは十|年《ねん》も若《わか》く見《み》える、五|尺《しゃく》に満《み》たない小作《こづく》りの春信《はるのぶ》であった。
おおかた銜《くわ》えた楊枝《ようじ》を棄《す》てて、顔《かお》を洗《あら》ったばかりなのであろう。まだ右手《みぎて》に提《さ》げた手拭《てぬぐい》は、重《おも》く濡《ぬ》れたままになっていた。
「藤吉《とうきち》」
春信《はるのぶ》は、鯉《こい》の背《せ》から眼《め》を放《はな》すと、急《きゅう》に思《おも》いだしたように、縁先《えんさき》の万年青《おもと》の葉《は》を掃除《そうじ》している、少年《しょうねん》の門弟《もんてい》藤吉《とうきち》を呼《よ》んだ。
「へえ」
「八つぁんは、まだ帰《かえ》って来《こ》ないようだの」
「へえ」
「おせんもまだ見《み》えないか」
「へえ」
「堺屋《さかいや》の太夫《たゆう》もか」
「へえ」
「おまえちょいと、枝折戸《しおりど》へ出《で》て見《み》て来《き》な」
「かしこまりました」
藤吉《とうきち》は、万年青《おもと》の葉《は》から掃除《そうじ》の筆《ふで》を放《はな》すと、そのまま萩《はぎ》の裾《すそ》を廻《まわ》って、小走《こばし》りにおもてへ出《で》て行《い》った。
「今時分《いまじぶん》、おせんがいないはずはないから、ひょっとすると八五|郎《ろう》の奴《やつ》、途中《とちゅう》で誰《だれ》かに遇《あ》って、道草《みちくさ》を食《く》ってるのかも知《
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