かぎょう》が出来《でき》やせんや。――そんなにいやなら、垂《たれ》を揚《あ》げるたいわねえから、そうじたばたと動《うご》かねえで、おとなしく乗《の》っておくんなせえ。――だが、考《かん》げえりゃ考《かん》げえるほど、このまま担《かつ》いでるな、勿体《もったい》ねえなァ」
 駕籠《かご》はいま、秋元但馬守《あきもとたじまのかみ》の練塀《ねりべい》に沿《そ》って、蓮《はす》の花《はな》が妍《けん》を競《きそ》った不忍池畔《しのばずちはん》へと差掛《さしかか》っていた。

    三

 東叡山《とうえいざん》寛永寺《かんえいじ》の山裾《やますそ》に、周囲《しゅうい》一|里《り》の池《いけ》を見《み》ることは、開府以来《かいふいらい》江戸《えど》っ子《こ》がもつ誇《ほこ》りの一つであったが、わけても雁《かり》の訪《おとず》れを待《ま》つまでの、蓮《はす》の花《はな》が池面《いけおも》に浮《う》き出《で》た初秋《しょしゅう》の風情《ふぜい》は、江戸歌舞伎《えどかぶき》の荒事《あらごと》と共《とも》に、八百八|町《ちょう》の老若男女《ろうにゃくなんにょ》が、得意中《とくいちゅう》の得意《とくい》とするところであった。
 近頃《ちかごろ》はやり物《もの》のひとつになった黄縞格子《きじまごうし》の薄物《うすもの》に、菊菱《きくびし》の模様《もよう》のある緋呉羅《ひごら》の帯《おび》を締《し》めて、首《くび》から胸《むね》へ、紅絹《べにぎぬ》の守袋《まもりぶくろ》の紐《ひも》をのぞかせたおせんは、洗《あら》い髪《がみ》に結《ゆ》いあげた島田髷《しまだまげ》も清々《すがすが》しく、正《ただ》しく座《すわ》った膝《ひざ》の上《うえ》に、両《りょう》の手《て》を置《お》いたまま、駕籠《かご》の中《なか》から池《いけ》のおもてに視線《しせん》を移《うつ》した。
 夜《よ》が明《あ》けて、まだ五つには間《ま》があるであろう。ひと抱《かか》えもあろうと想《おも》われる蓮《はす》の葉《は》に、置《お》かれた露《つゆ》の玉《たま》は、いずれも朝風《あさかぜ》に揺《ゆ》れて、その足《あし》もとに忍《しの》び寄《よ》るさざ波《なみ》を、ながし目《め》に見《み》ながら咲《さ》いた花《はな》の紅《べに》が招《まね》く尾花《おばな》のそれとは変《かわ》った清《きよ》い姿《すがた》を、水鏡《みずかがみ》に映《うつ》すたわわの風情《ふぜい》。ゆうべの夢見《ゆめみ》が忘《わす》れられぬであろう。葉隠《はがく》れにちょいと覗《のぞ》いた青蛙《あおがえる》は、今《いま》にも落《お》ちかかった三|角頭《かくとう》に、陽射《ひざ》しを眩《まば》ゆく避《さ》けていた。
「駕籠屋《かごや》さん」
 ふと、おせんが声《こえ》をかけた。
「へえ」
「こっち側《がわ》だけ、垂《たれ》を揚《あ》げておくんなさいな」
「なんでげすッて」
「花《はな》が見《み》とうござんすのさ」
「合点《がってん》でげす」
 先棒《さきぼう》と後《うしろ》との声《こえ》は、正《まさ》に一|緒《しょ》であった。駕籠《かご》が地上《ちじょう》におろされると同時《どうじ》に、池《いけ》に面《めん》した右手《みぎて》の垂《たれ》は、颯《さっ》とばかりにはね揚《あ》げられた。
「まァ綺麗《きれい》だこと」
「でげすからあっしらが、さっきッからいってたじゃござんせんか。こんないい景色《けしき》ァ、毎朝《まいあさ》見《み》られる図《ず》じゃァねえッて。――ごらんなせえやし。お前《まえ》さんの姿《すがた》が見《み》えたら、つぼんでいた花《はな》が、あの通《とお》り一|遍《ぺん》に咲《さ》きやしたぜ」
「ちげえねえ。葉ッぱにとまってた蛙《かえる》の野郎《やろう》までが、あんな大《おお》きな眼《め》を開《あ》きゃァがった」
「もういいから、やっておくんなさい」
「そんなら、ゆっくりめえりやしょう。――おせんちゃんが垂《たれ》を揚《あ》げておくんなさりゃ、どんなに肩身《かたみ》が広《ひろ》いか知《し》れやァしねえ。のう竹《たけ》」
「そうともそうとも。こうなったら、急《いそ》いでくれろと頼《たの》まれても、足《あし》がいうことを聞《き》きませんや。あっしと仙蔵《せんぞう》との、役得《やくとく》でげさァね」
「ほほほほ、そんならあたしゃ、垂《たれ》をおろしてもらいますよ」
「飛《と》んでもねえ。駕籠《かご》に乗《の》る人《ひと》かつぐ人《ひと》、行《ゆ》く先《さき》ァお客《きゃく》のままだが、かついでるうちァ、こっちのままでげすぜ。――それ竹《たけ》、なるたけ往来《おうらい》の人達《ひとたち》に目立《めだ》つように、腰《こし》をひねって歩《ある》きねえ」
「おっと、御念《ごねん》には及《およ》ばねえ。お上《かみ》が許《ゆる》しておくんな
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