ッて寸法《すんぽう》だろう」
「朝飯《あさめし》とお踏《ふ》みなすったか」
「そうだ。それともお前《まえ》さんのくるのを知《し》って、念入《ねんい》りの化粧《けしょう》ッてところか」
「嬉《うれ》しがらせは殺生《せっしょう》でげす。――おっと姐《ねえ》さん。おせんちゃんはどうしやした」
「唯今《ただいま》ちょいとお詣《まい》りに。――」
「どこへの」
「お稲荷様《いなりさま》でござんすよ」
「うむ、違《ちが》いない。ここァお稲荷様《いなりさま》の境内《けいだい》だっけの」
 徳太郎《とくたろう》は漸《ようや》く安心《あんしん》したように、ふふふと軽《かる》く内所《ないしょ》で笑《わら》った。

    二

 橘屋《たちばなや》の若旦那《わかだんな》徳太郎《とくたろう》が、おせんの茶屋《ちゃや》で安心《あんしん》の胸《むね》を撫《な》でおろしていた時分《じぶん》、当《とう》のおせんは、神田白壁町《かんだしろかべちょう》の鈴木春信《すずきはるのぶ》の住居《すまい》へと、ひたすら駕籠《かご》を急《いそ》がせた。
「相棒《あいぼう》」
「おお」
「威勢《いせい》よくやんねえ」
「合点《がってん》だ」
「そんじょそこらの、大道臼《だいどううす》を乗《の》せてるんじゃねえや。江戸《えど》一|番《ばん》のおせんちゃんを乗《の》せてるんだからの」
「そうとも」
「こうなると、銭金《ぜにかね》のお客《きゃく》じゃァねえ。こちとらの見得《みえ》になるんだ」
「その通《とお》りだ」
「おれァ、一|度《ど》、半蔵松葉《はんぞうまつば》の粧《よそ》おいという花魁《おいらん》を、小梅《こうめ》の寮《りょう》まで乗《の》せたことがあったっけが、入山形《いりやまがた》に一つ星《ぼし》の、全盛《ぜんせい》の太夫《たゆう》を乗《の》せた時《とき》だって、こんないい気持《きも》はしなかったぜ」
「もっともだ」
「垂《たれ》を揚《あ》げて、世間《せけん》の仲間《なかま》に見《み》せてやりてえくれえのものだの」
「おめえばかりじゃねえ。そいつァおいらもおんなじこッた」
「もし姐《ねえ》さん」と、後《うしろ》の方《ほう》から声《こえ》がかかった。
「あい」
「どうでげす。駕籠《かご》の垂《たれ》を揚《あ》げさしちァおくんなさるめえか」
「堪忍《かんにん》しておくんなさい。あたしゃ内所《ないしょ》の用事《ようじ》でござんすから。……」
「折角《せっかく》お前《まえ》さんを乗《の》せながら、垂《たれ》をおろして担《かつ》いでたんじゃ、勿体《もったい》なくって仕方《しかた》がねえ。憚《はばか》ンながら駕籠定《かごさだ》の竹《たけ》と仙蔵《せんぞう》は、江戸《えど》一|番《ばん》のおせんちゃんを乗《の》せてるんだと、みんなに見《み》せてやりてえんで。……」
「どうかそんなことは、もういわないでおくんなさい」
「評判娘《ひょうばんむすめ》のおせんちゃんだ。両方《りょうほう》揚《あ》げて悪《わる》かったら、片《かた》ッ方《ぽう》だけでもようがしょう」
「そうだ、姐《ねえ》さん。こいつァ何《なに》も、あっしらばかりの見得《みえ》じゃァごあんせんぜ。春信《はるのぶ》さんの絵《え》で売《う》り込《こ》むのも、駕籠《かご》から窺《のぞ》いて見《み》せてやるのも、いずれは世間《せけん》へのおんなじ功徳《くどく》でげさァね。ひとつ思《おも》い切《き》って、ようがしょう」
「どうか堪忍《かんにん》。……」
「欲《よく》のねえお人《ひと》だなァ。垂《たれ》を揚《あ》げてごらんなせえ。あれ見《み》や、あれが水茶屋《みずちゃや》のおせんだ。笠森《かさもり》のおせんだと、誰《だれ》いうとなく口《くち》から耳《みみ》へ伝《つた》わって白壁町《しろかべちょう》まで往《ゆ》くうちにゃァ、この駕籠《かご》の棟《むね》ッ鼻《ぱな》にゃ、人垣《ひとがき》が出来《でき》やすぜ。のう竹《たけ》」
「そりゃァもう仙蔵《せんぞう》のいう通《とお》り真正《しんしょう》間違《まちげ》えなしの、生《い》きたおせんちゃんを江戸《えど》の町中《まちなか》で見《み》たとなりゃァ、また評判《ひょうばん》は格別《かくべつ》だ。――片《かた》ッ方《ぽう》でもいけなけりゃ、せめて半分《はんぶん》だけでも揚《あ》げてやったら、通《とお》りがかりの人達《ひとたち》が、どんなに喜《よろこ》ぶか知《し》れたもんじゃねえんで。……」
「駕籠屋《かごや》さん」
「ほい」
「あたしゃもう降《お》りますよ」
「何《な》んでげすッて」
「無理難題《むりなんだい》をいうんなら、ここで降《お》ろしておくんなさいよ」
「と、とんでもねえ。お前《まえ》さんを、こんなところでおろした日《ひ》にゃ、それこそこちとらァ、二|度《ど》と再《ふたた》び、江戸《えど》じゃ家業《
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