。まず御手洗《みたらし》で手《て》を浄《きよ》めての。肝腎《かんじん》のお稲荷《いなり》さんへ参詣《さんけい》しねえことにゃ、罰《ばち》が当《あた》って眼《め》がつぶれやしょう」
「いかさまこれは早《はや》まった。こかァ笠森様《かさもりさま》の境内《けいだい》だったッけの」
「冗談《じょうだん》じゃごわせん。そいつを忘《わす》れちゃ、申訳《もうしわけ》がありますめえ。――それそれ、何《な》んでまた、洗《あら》った手《て》を拭《ふ》きなさらねえ。おせんは逃《に》げやしねえから、落着《おちつ》いたり、落着《おちつ》いたり」
「御隠居《ごいんきょ》、そうひやかしちゃいけやせん。堪忍《かんにん》堪忍《かんにん》」
「はッはッはッ、徳《とく》さん。お前《まえ》の足《あし》ッ、まるッきり、地《じ》べたを踏《ふ》んじァいねえの」
こおろぎの音《ね》も細々《ほそぼそ》と明《あ》け暮《く》れて、風《かぜ》に乱《みだ》れる芒叢《すすきむら》に、三つ四つ五つ、子雀《こすずめ》の飛《と》び交《か》うさまも、いとど憐《あわ》れの秋《あき》ながら、ここ谷中《やなか》の草道《くさみち》ばかりは、枯野《かれの》も落葉《おちば》も影《かげ》さえなく、四季《しき》を分《わか》たず咲《さ》き競《そ》うた、芙蓉《ふよう》の花《はな》が清々《すがすが》しくも色《いろ》を染《そ》めて、西《にし》の空《そら》に澄《す》み渡《わた》った富岳《ふがく》の雪《ゆき》に映《は》えていた。
名《な》にし負《お》う花《はな》の笠森《かさもり》感応寺《かんのうじ》。渋茶《しぶちゃ》の味《あじ》はどうであろうと、おせんが愛想《あいそう》の靨《えくぼ》を拝《おが》んで、桜貝《さくらがい》をちりばめたような白魚《しらうお》の手《て》から、お茶《ちゃ》一|服《ぷく》を差《さ》し出《だ》されれば、ぞっと色気《いろけ》が身《み》にしみて、帰《かえ》りの茶代《ちゃだい》は倍《ばい》になろうという。女《おんな》ならでは夜《よ》のあけぬ、その大江戸《おおえど》の隅々《すみずみ》まで、子供《こども》が唄《うた》う毬唄《まりうた》といえば、近頃《ちかごろ》「おせんの茶屋《ちゃや》」にきまっていた。
夜《よる》が白々《しらじら》と明《あ》けそめて、上野《うえの》の森《もり》の恋《こい》の鴉《からす》が、まだ漸《ようや》く夢《ゆめ》から覚《さ》めたか覚《さ》めない時分《じぶん》、早《はや》くも感応寺《かんのうじ》中門前町《なかもんぜんちょう》は、参詣《さんけい》の名《な》に隠《かく》れての、恋知《こいし》り男《おとこ》の雪駄《せった》の音《おと》で賑《にぎ》わいそめるが、十一|軒《けん》の水茶屋《みずちゃや》の、いずれの見世《みせ》に休《やす》むにしても、当《とう》の金的《きんてき》はかぎ屋《や》のおせんただ一人《ひとり》。ゆうべ吉原《よしわら》で振《ふ》り抜《ぬ》かれた捨鉢《すてばち》なのが、帰《かえ》りの駄賃《だちん》に、朱羅宇《しゅらう》の煙管《きせる》を背筋《せすじ》に忍《しの》ばせて、可愛《かわい》いおせんにやろうなんぞと、飛《と》んだ親切《しんせつ》なお笑《わら》い草《ぐさ》も、数《かず》ある客《きゃく》の中《なか》にも珍《めずら》しくなかった。
「はいお早《はよ》う」
「ああ喉《のど》がかわいた」
赤《あか》い鳥居《とりい》の手前《てまえ》にある。伊豆石《いずいし》の御手洗《みたらし》で洗《あら》った手《て》を、拭《ふ》くのを忘《わす》れた橘屋《たちばなや》の若旦那《わかだんな》徳太郎《とくたろう》が、お稲荷様《いなりさま》への参詣《さんけい》は二の次《つ》ぎに、連《つ》れの隠居《いんきょ》の台詞通《せりふどお》り、土《つち》へつかない足《あし》を浮《う》かせて、飛《と》び込《こ》んで来《き》たおせんの見世先《みせさき》。どかりと腰《こし》をおろした縁台《えんだい》に、小腰《こごし》をかがめて近寄《ちかよ》ったのは、肝腎《かんじん》のおせんではなくて、雇女《やといめ》のおきぬだった。
「いらっしゃいまし。お早《はや》くからようこそ御参詣《おさんけい》で。――」
「茶《ちゃ》をひとつもらいましょう」
「はい、唯今《ただいま》」
三四|人《にん》の先客《せんきゃく》への遠慮《えんりょ》からであろう。おきぬが茶《ちゃ》を汲《く》みに行《い》ってしまうと、徳太郎《とくたろう》はじくりと固唾《かたず》を呑《の》んで声《こえ》をひそめた。
「おかしいの。居《お》りやせんぜ」
「そんなこたァごわすまい。看板《かんばん》のねえ見世《みせ》はあるまいからの」
「だが御隠居《ごいんきょ》。おせんは影《かげ》もかたちも見《み》えやせんよ」
「あわてずに待《ま》ったり。じきに奥《おく》から出《で》て来《き》よう
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