から微《かす》かに差《さ》し込《こ》む陽《ひ》の光《ひかり》を頼《たよ》りに、油皿《あぶらざら》のそばまで持《も》って行《い》った松《まつ》五|郎《ろう》は、中指《なかゆび》の先《さき》で冷《つめ》たい真鍮《しんちゅう》の口《くち》を加減《かげん》しながら、とッとッとと、おもく落《お》ちた油《あぶら》を透《す》かして見《み》たが、さてどうやらそれがうまく運《はこ》ぶと、これも足《あし》の先《さき》で探《さぐ》り出《だ》した火口《ほくち》を取《と》って、やっとの思《おも》いで行燈《あんどん》に灯《ひ》をいれた。
 ぱっと、漆盆《うるしぼん》の上《うえ》へ欝金《うこん》の絵《え》の具《ぐ》を垂《た》らしたように、あたりが明《あか》るくなった。同時《どうじ》に、春重《はるしげ》のニヤリと笑《わら》った薄気味悪《うすきみわる》い顔《かお》が、こっちを向《む》いて立《た》っていた。
「松《まつ》つぁん。おめえ本当《ほんとう》に、女《おんな》の匂《におい》は、麝香《じゃこう》の匂《におい》だと思《おも》ってるんだの」
「そりゃァそうだ。こんな生皮《なまかわ》のような匂《におい》が女《おんな》の匂《におい》でたまるもんか」
「そうか。じゃァよくわかるように、こいつを見《み》せてやる」
 編《あ》めば牛蒡締《ごぼうじめ》くらいの太《ふと》さはあるであろう。春重《はるしげ》の手《て》から、無造作《むぞうさ》に投《な》げ出《だ》された真《ま》ッ黒《くろ》な一|束《たば》は、松《まつ》五|郎《ろう》の膝《ひざ》の下《した》で、蛇《へび》のようにひとうねりうねると、ぐさりとそのまま畳《たたみ》の上《うえ》へ、とぐろ[#「とぐろ」に傍点]を巻《ま》いて納《おさ》まってしまった。
「あッ」
「気味《きみ》の悪《わる》いもんじゃねえよ。よく手《て》に取《と》って、その匂《におい》を嗅《か》いで見《み》ねえ」
 松《まつ》五|郎《ろう》は行燈《あんどん》の下《した》に、じっと眼《め》を瞠《みは》った。
「これァ重《しげ》さん、髪《かみ》の毛《け》じゃねえか」
「その通《とお》りだ」
「こんなものを、おめえ。……」
「ふふふ、気味《きみ》が悪《わる》いか。情《なさけ》ねえ料簡《りょうけん》だの、爪《つめ》の匂《におい》がいやだというから、そいつを嗅《か》がせてやるんだが、これだって、髢《かもじ》なんぞたわけが違《ちが》って、滅多矢鱈《めったやたら》に集《あつ》まる代物《しろもの》じゃァねえんだ。数《かず》にしたら何万本《なんまんぼん》。しかも一|本《ぽん》ずつがみんな違《ちが》った、若《わか》い女《おんな》の髪《かみ》の毛《け》だ。――その中《なか》へ黙《だま》って顔《かお》を埋《う》めて見《み》ねえ。一人一人《ひとりひとり》の違《ちが》った女《おんな》の声《こえ》が、代《かわ》り代《がわ》りに聞《きこ》えて来《き》る。この世《よ》ながらの極楽《ごくらく》だ。上《うえ》はお大名《だいみょう》のお姫様《ひめさま》から、下《した》は橋《はし》の下《した》の乞食《こじき》まで、十五から三十までの女《おんな》と名《な》のつく女《おんな》の髪《かみ》は、ひと筋《すじ》残《のこ》らずはいってるんだぜ。――どうだ松《まつ》つぁん。おいらァ、この道《みち》へかけちゃ、江戸《えど》はおろか、蝦夷《えぞ》長崎《ながさき》の果《はて》へ行《い》っても、ひけは取《と》らねえだけの自慢《じまん》があるんだ。見《み》ねえ、髪《かみ》の毛《け》はこの通《とお》り、一|本《ぽん》残《のこ》らず生《い》きてるんだから。……」
 松《まつ》五|郎《ろう》の膝《ひざ》もとから、黒髪《くろかみ》の束《たば》を取《と》りあげた春重《はるしげ》は、忽《たちま》ちそれを顔《かお》へ押《お》し当《あ》てると、次第《しだい》に募《つの》る感激《かんげき》に身《み》をふるわせながら、異様《いよう》な声《こえ》で笑《わら》い始《はじ》めた。
「重《しげ》さん。おれァ帰《けえ》る」
「帰《けえ》るンなら、せめて匂《におい》だけでも嗅《か》いできねえ」
 が、松《まつ》五|郎《ろう》は、もはや腰《こし》が坐《すわ》らなかった。

    六

「ああ気味《きみ》が悪《わる》かった。ついゆうべの惚気《のろけ》を聞《き》かせてやろうと思《おも》って、寄《よ》ったばっかりに、ひでえ目《め》に遇《あ》っちゃった。変《かわ》り者《もの》ッてこたァ知《し》ってたが、まさか、あれ程《ほど》たァ思《おも》わなかった。――あんな奴《やつ》につかまっちゃァ、まったくかなわねえ」
 弾《はじ》かれた煎豆《いりまめ》のように、雨戸《あまど》の外《そと》へ飛《と》び出《だ》した松《まつ》五|郎《ろう》は、酔《よ》いも一|時《じ》に醒《さ》め果
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