《は》てて、一|寸先《すんさき》も見《み》えなかったが、それでも溝板《どぶいた》の上《うえ》を駆《か》けだして、角《かど》の煙草屋《たばこや》の前《まえ》まで来《く》ると、どうやらほっと安心《あんしん》の胸《むね》を撫《な》でおろした。
「だが、いったいあいつは、何《な》んだってあんな馬鹿気《ばかげ》たことが好《す》きなんだろう。爪《つめ》を煮《に》たり、髪《かみ》の毛《け》の中《なか》へ顔《かお》を埋《う》めたり、気狂《きちがい》じみた真似《まね》をしちゃァ、いい気持《きもち》になってるようだが、虫《むし》のせえだとすると、ちと念《ねん》がいり過《す》ぎるしの。どうも料簡方《りょうけんがた》がわからねえ」
 ぶつぶつひとり呟《つぶや》きながら、小首《こくび》を傾《かし》げて歩《ある》いて来《き》た松《まつ》五|郎《ろう》は、いきなりぽんと一つ肩《かた》をたたかれて、はッ[#「はッ」に傍点]とした。
「どうした、兄《あに》ィ」
「おおこりゃ松住町《まつずみちょう》」
「松住町《まつずみちょう》じゃねえぜ。朝《あさ》っぱらから、素人芝居《しろうとしばい》の稽古《けいこ》でもなかろう。いい若《わけ》え者《もの》がひとり言《ごと》をいってるなんざ、みっともねえじゃねえか」
 坊主頭《ぼうずあたま》へ四つにたたんだ手拭《てぬぐい》を載《の》せて、朝《あさ》の陽差《ひざし》を避《さ》けながら、高々《たかだか》と尻《しり》を絡《から》げたいでたちの相手《あいて》は、同《おな》じ春信《はるのぶ》の摺師《すりし》をしている八五|郎《ろう》だった。
「みっともねえかも知《し》れねえが、あれ程《ほど》たァ思《おも》わなかったからよ」
「何《なに》がよ」
「春重《はるしげ》だ」
「春重《はるしげ》がどうしたッてんだ」
「どうもこうもねえが、あいつァおめえ、日本《にほん》一の変《かわ》り者《もの》だぜ」
「春重《はるしげ》の変《かわ》り者《もの》だってこたァ、いつも師匠《ししょう》がいってるじゃねえか。今《いま》さら変《かわ》り者《もの》ぐれえに、驚《おどろ》くおめえでもなかろうによ」
「うんにゃ、そうでねえ。ただの変《かわ》り者《もの》なら、おいらもこうまじゃ驚《おどろ》かねえが、一|晩中《ばんじゅう》寝《ね》ずに爪《つめ》を煮《に》たり、束《たば》にしてある女《おんな》の髪《かみ》の毛《け》を、一|本《ぽん》一|本《ぽん》しゃぶったりするのを見《み》ちゃァいくらおいらが度胸《どきょう》を据《す》えたって。……」
「爪《つめ》を煮《に》るたァ、そいつァいってえ何《な》んのこったい」
「薬罐《やかん》に入《い》れて、女《おんな》の爪《つめ》を煮《に》るんだ」
「女《おんな》の爪《つめ》を煮《に》る。――」
「そうよ。おまけにこいつァ、ただの女《おんな》の爪《つめ》じゃァねえぜ。当時《とうじ》江戸《えど》で、一といって二と下《くだ》らねえといわれてる、笠森《かさもり》おせんの爪《つめ》なんだ」
「冗談《じょうだん》じゃねえ。おせんの爪《つめ》が、何《な》んで煮《に》る程《ほど》取《と》れるもんか、おめえも人《ひと》が好過《よす》ぎるぜ。春重《はるしげ》に欺《だま》されて、気味《きみ》が悪《わる》いの恐《おそ》ろしいのと、頭《あたま》を抱《かか》えて帰《かえ》ってくるなんざ、お笑《わら》い草《ぐさ》だ。おおかた絵《え》を描《か》く膠《にかわ》でも煮《に》ていたんだろう。そいつをおめえが間違《まちが》って。……」
「そ、そんなんじゃねえ。真正《しんしょう》間違《まちが》いのねえおせんの爪《つめ》を紅《べに》の糠袋《ぬかぶくろ》から小出《こだ》しに出《だ》して、薬罐《やかん》の中《なか》で煮《に》てるんだ。そいつも、ただ煮《に》てるんならまだしもだが、薬罐《やかん》の上《うえ》へ面《つら》を被《かぶ》せて、立昇《たちのぼ》る湯気《ゆげ》を、血相《けっそう》変《か》えて嗅《か》いでるじゃねえか。あれがおめえ、いい心持《こころもち》で見《み》ていられるか、いられねえか、まず考《かんが》えてくんねえ」
「そいつを嗅《か》いで、どうしようッてんだ」
「奴《やつ》にいわせると、あのたまらなく臭《くせ》え匂《におい》が本当《ほんとう》の女《おんな》の匂《におい》だというんだ。嘘《うそ》だと思《おも》ったら、論《ろん》より証拠《しょうこ》、春重《はるしげ》の家《うち》へ行《い》って見《み》ねえ。戸《と》を締《し》め切《き》って、今《いま》が嬉《うれ》しがりの真《ま》ッ最中《さいちゅう》だぜ」
 が、八五|郎《ろう》は首《くび》を振《ふ》った。
「そいつァいけねえ。おれァ師匠《ししょう》の使《つか》いで、おせんのとこまで行《い》かにゃならねえんだ」

    七

 隈取《
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