こう》だぜ。――そんな遠《とお》くにいたんじゃ、本当《ほんとう》の香《かお》りは判《わか》らねえから、もっと薬罐《やかん》の傍《そば》に寄《よ》って、鼻《はな》の穴《あな》をおッぴろげて嗅《か》いで見《み》ねえ」
「いってえ、何《なに》を煮《に》てるのよ」
「江戸《えど》はおろか、日本中《にほんじゅう》に二つとねえ代物《しろもの》を煮《に》てるんだ」
「おどかしちゃいけねえ。そんな物《もの》がある訳《わけ》はなかろうぜ」
「なにねえことがあるものか。――それ見《み》ねえ。おめえ、この袋《ふくろ》にゃ覚《おぼ》えがあろう」
鼻《はな》の先《さき》へ付《つ》き付《つ》けた紅《べに》の糠袋《ぬかぶくろ》は、春重《はるしげ》の手《て》の中《なか》で、珠《たま》のように小《ちい》さく躍《おど》った。
「あッ。そいつを。……」
「どうだ。おせんの爪《つめ》だ。この匂《におい》を嫌《きら》うようじゃ、男《おとこ》に生《うま》れた甲斐《かい》がねえぜ」
「重《しげ》さん。おめえは、よっぽどの変《かわ》り者《もの》だのう」
松《まつ》五|郎《ろう》は、あらためて春重《はるしげ》の顔《かお》を見守《みまも》った。
「変《かわ》り者《もの》じゃァねえ。そういうおめえの方《ほう》が、変《かわ》ってるんだ。――四|角《かく》四|面《めん》にかしこまっているお武家《ぶけ》でも、男《おとこ》と生《うま》れたからにゃ、女《おんな》の嫌《きら》いな者《もの》ッ、ただの一人《ひとり》もありゃァしめえ。その万人《まんにん》が万人《まんにん》、好《す》きで好《す》きでたまらねえ女《おんな》の、これが本当《ほんとう》の匂《におい》だろうじゃねえか。成《な》る程《ほど》、肌《はだ》の匂《におい》もある。髪《かみ》の匂《におい》もある。乳《ちち》の匂《におい》もあるにァ違《ちげ》えねえ。だが、その数《かず》ある女《おんな》の匂《におい》を、一つにまとめた有難味《ありがたみ》の籠《こも》ったのが、この匂《におい》なんだ。――三|浦屋《うらや》の高尾《たかお》がどれほど綺麗《きれい》だろうが、楊枝見世《ようじみせ》のお藤《ふじ》がどんなに評判《ひょうばん》だろうが、とどのつまりは、みめかたちよりは、女《おんな》の匂《におい》に酔《よ》って客《きゃく》が通《かよ》うという寸法《すんぽう》じゃねえか。――よく聞《き》きなよ。匂《におい》だぜ。このたまらねえいい匂《におい》だぜ」
「冗談《じょうだん》じゃねえ。おいらァいくら何《な》んだって、こんな匂《におい》をかぎたくッて、通《かよ》うような馬鹿気《ばかげ》たこたァ。……」
「あれだ。おめえにゃまだ、まるッきり判《わか》らねえと見《み》えるの。こいつだ。この匂《におい》が、嘘《うそ》も隠《かく》しもねえ、女《おんな》の匂《におい》だってんだ」
「馬鹿《ばか》な、おめえ。――」
「そうか。そう思《おも》ってるんなら、いまおめえに見《み》せてやる物《もの》がある。きっとびっくりするなよ」
春重《はるしげ》はこういいながら、いきなり真暗《まっくら》な戸棚《とだな》の中《なか》へ首《くび》を突《つ》っ込《こ》んだ。
五
じりじりッと燈芯《とうしん》の燃《も》え落《お》ちる音《おと》が、しばしのしじまを破《やぶ》ってえあたりを急《きゅう》に明《あか》るくした。が、それも束《つか》の間《ま》、やがて油《あぶら》が尽《つ》きたのであろう。行燈《あんどん》は忽《たちま》ち消《き》えて、あたりは真《しん》の闇《やみ》に変《かわ》ってしまった。
「いたずらしちゃァいけねえ。まるっきりまっ暗《くら》で、何《な》んにも見《み》えやしねえ」
背伸《せの》びをして、三|尺《じゃく》の戸棚《とだな》の奥《おく》を探《さぐ》っていた春重《はるしげ》は、闇《やみ》の中《なか》から重《おも》い声《こえ》でこういいながら、もう一|度《ど》、ごとり[#「ごとり」に傍点]と鼠《ねずみ》のように音《おと》を立《た》てた。
「いたずらじゃねえよ。油《あぶら》が切《き》れちゃったんだ」
「油《あぶら》が切《き》れたッて。そんなら、行燈《あんどん》のわきに、油差《あぶらさし》と火口《ほくち》がおいてあるから、速《はや》くつけてくんねえ」
「どこだの」
「行燈《あんどん》の右手《みぎて》だ」
口《くち》でそういわれても、勝手《かって》を知《し》らない暗《やみ》の中《なか》では、手探《てさぐ》りも容易《ようい》でなく、松《まつ》五|郎《ろう》は破《やぶ》れ畳《たたみ》の上《うえ》を、小気味悪《こきみわる》く這《は》い廻《まわ》った。
「速《はや》くしてもらいてえの」
「いまつける」
探《さぐ》り当《あ》てた油差《あぶらさし》を、雨戸《あまど》の隙間《すきま》
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