、それこそ生皮《なまかわ》の匂《におい》で、隣近所《となりきんじょ》は大迷惑《おおめいわく》だわな」
「生皮《なまかわ》の匂《におい》ってななんだの、お上《かみ》さん」
「おや、親方《おやかた》にゃこの匂《におい》がわからないのかい。このたまらないいやな[#「いやな」に傍点]匂《におい》が。……」
「判《わか》らねえこたァねえが、こいつァおまえ、膠《にかわ》を煮《に》てる匂《におい》だわな」
「冗談《じょうだん》じゃない。そんな生《なま》やさしいもんじゃありゃァしない。お鍋《なべ》を火鉢《ひばち》へかけて、雪駄《せった》の皮《かわ》を煮《に》てるんだよ。今《いま》もうちで、絵師《えし》なんて振《ふ》れ込《こ》みは、大嘘《おおうそ》だって話《はなし》を。……」
 がらッと雨戸《あまど》が開《あ》いて、春重《はるしげ》の辛《から》い顔《かお》がぬッと現《あらわ》れた。
「お早《は》よう」
「お早《は》ようじゃねえや。何《な》んだって松《まつ》つぁんこんな早《はや》くッからやって来《き》たんだ」
「早《はや》えことがあるもんか。お天道様《てんとうさま》は、もうとっくに朝湯《あさゆ》を済《す》まして、あんなに高《たか》く昇《のぼ》ってるじゃねえか。――いってえ重《しげ》さん。おめえ、寝《ね》てえたんだか起《お》きてたんだか、なぜ返事《へんじ》をしてくれねえんだ」
「返事《へんじ》なんざ、しちゃァいられねえよ。――いいからこっちへ這入《はい》ンねえ」
 不機嫌《ふきげん》な春重《はるしげ》の顔《かお》は、桐油《とうゆ》のように強張《こわば》っていた。
「へえってもいいかい」
「帰《かえ》るんなら帰《かえ》ンねえ」
「いやにおどかすの」
「振《ふ》られた朝帰《あさがえ》りなんぞに寄《よ》られちゃ、かなわねえ」
「ふふふ。振《ふ》られてなんざ来《き》ねえよ。それが証拠《しょうこ》にゃ、いい土産《みやげ》を持《も》って来《き》た」
「土産《みやげ》なんざいらねえから、そこを締《し》めたら、もとの通《とお》り、ちゃんと心張棒《しんばりぼう》をかけといてくんねえ」
「重《しげ》さん、おめえまだ寝《ね》るつもりかい」
「いいから、おいらのいった通《とお》りにしてくんねえよ」
 松《まつ》五|郎《ろう》が不承無承《ふしょうぶしょう》に、雨戸《あまど》の心張棒《しんばりぼう》をかうと、九|尺《しゃく》二|間《けん》の家《うち》の中《なか》は再《ふたた》び元通《もとどお》りの夜《よる》の世界《せかい》に変《かわ》って行《い》った。
「上《あが》ンねえ」
 が、松《まつ》五|郎《ろう》は、次第《しだい》に鼻《はな》を衝《つ》いてくる異様《いよう》な匂《におい》に、そのままそこへ佇《たたず》んでしまった。

    四

 行燈《あんどん》はほのかにともっていたものの、日向《ひなた》から這入《はい》って来《き》たばかりの松《まつ》五|郎《ろう》の眼《め》には、家《うち》の中《なか》は真《ま》ッ暗闇《くらやみ》であった。
「松《まつ》つぁん、何《な》んで上《あが》らねえんだ」
「暗《くら》くって、足《あし》もとが見《み》えやしねえ」
「不自由《ふじゆう》な眼《まなこ》だの。そんなこっちゃ、面白《おもしろ》い思《おも》いは出来《でき》ねえぜ」
「重《しげ》さん、おめえ、ずっと起《お》きて何《なに》をしてなすった」
「ふふふ。こっちへ上《あが》りゃァ、直《す》ぐに判《わか》るこッた。――まァこの行燈《あんどん》の傍《そば》へ来《き》て見《み》ねえ」
 漸《ようや》く眼《め》に慣《な》れて来《き》たのであろう。行燈《あんどん》の輪《わ》が次第《しだい》に色《いろ》を濃《こ》くするにつれて、狭《せま》いあたりの有様《ありさま》は、おのずから松《まつ》五|郎《ろう》の前《まえ》にはっきり浮《う》き出《だ》した。
「絵《え》をかいてたんじゃねえのかい」
「絵《え》なんざかいちゃァいねえよ。――おめえにゃ、この匂《におい》がわからねえかの」
「膠《にかわ》だな」
「ふふ、膠《にかわ》は情《なさけ》ねえぜ」
「じゃァやっぱり、牛《うし》の皮《かわ》でも煮《に》てるのか」
「馬鹿《ばか》をいわッし。おいらが何《な》んで、牛《うし》の皮《かわ》に用《よう》があるんだ。もっともこの薬罐《やかん》の傍《そば》へ鼻《はな》を押《お》ッつけて、よく嗅《か》いで見ねえ」
「おいらァ、こんな匂《におい》は真《ま》ァ平《ぴら》だ」
「何《な》んだって。この匂《におい》がかげねえッて。ふふふ。世《よ》の中《なか》にこれ程《ほど》のいい匂《におい》は、またとあるもんじゃねえや、伽羅沈香《きゃらちんこう》だろうが、蘭麝《らんじゃ》だろうが及《およ》びもつかねえ、勿体《もったい》ねえくれえの名香《めい
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