《たゆう》さん。――」
「お、せ、ん――」
「ああ、もし」
おせんは、次第《しだい》に唇《くちびる》の褪《あ》せて行《ゆ》く菊之丞《きくのじょう》の顔《かお》の上《うえ》に、涙《なみだ》と共《とも》に打《う》ち伏《ふ》してしまった。
隣座敷《となりざしき》から、俄《にわか》に人々《ひとびと》の立《た》つ気配《けはい》がした。
七
二|代目《だいめ》瀬川菊之丞《せがわきくのじょう》の死《し》が報《ほう》ぜられたのは、その日《ひ》の暮《く》れ方《がた》近《ちか》くだった。江戸《えど》の民衆《みんしゅう》は、去年《きょねん》の吉原《よしわら》の大火《たいか》よりも、更《さら》に大《おお》きな失望《しつぼう》の淵《ふち》に沈《しず》んだが、中《なか》にも手中《しゅちゅう》の珠《たま》を奪《うば》われたような、悲《かな》しみのどん底《ぞこ》に落《お》ち込《こ》んだのは、菊之丞《きくのじょう》でなければ夜《よ》も日《ひ》もあけない各大名《かくだいみょう》や旗本屋敷《はたもとやしき》の女中達《じょちゅうたち》だった。
殊《こと》に、この知《し》らせを受《う》けて、天地《てんち》が覆《くつが》えった程《ほど》の驚愕《きょうがく》を覚《おぼ》えたのは、南町奉行《みなみまちぶぎょう》本多信濃守《ほんだしなののかみ》の妹《いもうと》お蓮《れん》であろう。折《おり》から夕餉《ゆうげ》の膳《ぜん》に対《むか》おうとしていたお蓮《れん》は、突然《とつぜん》手《て》にした箸《はし》を取落《とりおと》すと、そのまま狂気《きょうき》したように、ふらふらッと立上《たちあが》って、跣足《はだし》のまま庭先《にわさき》へと駆《か》け降《お》りて行《い》った。
二三|人《にん》の侍女《じじょ》が、直《す》ぐさまその後《あと》を追《お》った。
「もし、お嬢様《じょうさま》。お危《あぶ》のうござります」
「何《なに》をするのじゃ。放《はな》しや」
「どちらへおいで遊《あそ》ばします」
「知《し》れたことじゃ。これから直《す》ぐに、浜村屋《はまむらや》の許《もと》へまいる」
「これはまあ、滅相《めっそう》なことを仰《おっ》しゃいます」
「何《なに》が滅相《めっそう》なことじゃ、わらわがまいって、浜村屋《はまむらや》の病気《びょうき》を癒《なお》して取《と》らせるのじゃ。――邪間《じゃま》だてせずと、そこ退《の》きゃ」
「なりませぬ」
「ええもう、退《の》きゃというに、退《の》かぬか」
手荒《てあら》く突《つ》き退《の》けられた一人《ひとり》の侍女《じじょ》は、転《ころ》びながらも、お蓮《れん》の裾《すそ》を確《しか》と押《おさ》えた。
「お嬢様《じょうさま》。お気《き》をお静《しず》め遊《あそ》ばしまして。……」
「いらぬことじゃ。放《はな》せ」
「いいえお放《はな》しいたしませぬ。今頃《いまごろ》お出《で》まし遊《あそ》ばしましては、お身分《みぶん》に係《かか》わりまする。もしまた、たってお出《で》まし遊《あそ》ばしますなら、一|応《おう》わたくし共《ども》から御家老《ごかろう》へ、その由《よし》お伝《つた》えいたしませねば。……」
「くどいわ。放《はな》せというに、放《はな》さぬか」
夢中《むちゅう》で振《ふ》り払《はら》ったお蓮《れん》の片袖《かたそで》は、稲穂《いなほ》のように侍女《じじょ》の手《て》に残《のこ》って、惜《お》し気《げ》もなく土《つち》を蹴《け》ってゆく白臘《はくろう》の足《あし》が、夕闇《ゆうやみ》の中《なか》にほのかに白《しろ》かった。
「もし、お嬢様《じょうさま》。――」
池《いけ》を廻《まわ》って、築山《つきやま》の裾《すそ》を走《はし》るお蓮《れん》の姿《すがた》は、狐《きつね》のように速《はや》かった。
「それ、向《むこ》うから。――」
「あちらへお廻《まわ》り遊《あそ》ばしました」
男気《おとこけ》のない奥庭《おくにわ》に、次第《しだい》に数《かず》を増《ま》した女中達《じょちゅうたち》は、お蓮《れん》の姿《すがた》を見失《みうしな》っては一|大事《だいじ》と思《おも》ったのであろう。老《おい》も若《わか》きもおしなべて、庭《にわ》の木戸《きど》へと歩《ほ》を乱《みだ》した。
が、必死《ひっし》に駆《か》け着《つ》けた庭《にわ》の木戸《きど》には、もはやお蓮《れん》の姿《すがた》は見《み》られなかった。
「お嬢様《じょうさま》。――」
「お待《ま》ち遊《あそ》ばせ」
しかも、年《ねん》に一|度《ど》も、駆《か》けたことなどのないお蓮《れん》は、庭木戸《にわきど》を出《で》は出《で》たものの、既《すで》に脚《あし》が釣《つ》るまでに疲《つか》れ果《は》てて、口《くち》の中《なか》で菊之丞《きくのじょう》の
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