名《な》を呼《よ》びながら、今《いま》はもはや堪《た》えられない歩《あゆ》みを、いずくへとのあてもなしに、無理《むり》から先《さき》へ先《さき》へと運《はこ》んでいた。
「――浜村屋《はまむらや》、待《ま》ちや。わらわを置《お》いて、そなたばかりがどこへ行《ゆ》く。――そりゃ聞《き》こえぬぞ。わらわも一|緒《しょ》じゃ。そなたの行《ゆ》きやるところなら、地獄《じごく》の極《はて》へなりと、いといはせぬ。連《つ》れて行《ゆ》きゃ。速《はよ》う連《つ》れて行《ゆ》きゃ」
二十一で坂部壱岐守《さかべいきのかみ》へ嫁《とつ》いで八|年目《ねんめ》に戻《もど》って来《き》た。既《すで》に三十の身《み》ではあったが、十四五の頃《ころ》から早《はや》くも本多小町《ほんだこまち》と謳《うた》われたお蓮《れん》は、まだ漸《ようやく》く二十四五にしか見《み》えず、いずれかといえば妖艶《ようえん》なかたちの、情熱《じょうねつ》に燃《も》えた眼《め》を据《す》えて、夕闇《ゆうやみ》の中《なか》を音《おと》もなく歩《ある》いてゆく様《さま》は、ぞッとする程《ほど》凄《すご》かった。
八
いずこの大名《だいみょう》旗本《はたもと》の屋敷《やしき》に、如何《いか》なる騒《さわ》ぎが持上《もちあが》っていようとも、それらのことは、まったく別《べつ》の世界《せかい》の出来事《できごと》のように、菊之丞《きくのじょう》の家《うち》は、静《しず》かにしめやかであった。
座元《ざもと》をはじめ、あらゆる芝居道《しばいどう》の人達《ひとたち》はいうまでもなく、贔屓《ひいき》の人々《ひとびと》、出入《でいり》のたれかれと、百を越《こ》える人数《にんずう》は、仕切《しき》りなしに押《お》し寄《よ》せて、さしも豪奢《ごうしゃ》を誇《ほこ》る住居《すまい》も所《ところ》狭《せま》きまでの混雑《こんざつ》を見《み》ていたが、しかも菊之丞《きくのじょう》の冷たいむくろを安置《あんち》した八|畳《じょう》の間《ま》には、妻女《さいじょ》のおむらさえ入《い》れないおせんがただ一人《ひとり》、首《くび》を垂《た》れたまま、黙然《もくねん》と膝《ひざ》の上《うえ》を見詰《みつ》めていた。
ふと、おせんの固《かた》く結《むす》んだ唇《くちびる》から、低《ひく》い、微《かす》かな声《こえ》が漏《も》れた。
「吉《きち》ちゃん。おかみさんや、ほかの人達《ひとたち》にお願《ねが》いして、あたしがたった一人《ひとり》、お前《まえ》の枕許《まくらもと》へ残《のこ》してもらったのは、十|年前《ねんまえ》の、飯事遊《ままごとあそ》びが、忘《わす》れられないからでござんす。――みんなして、近所《きんじょ》の飛鳥山《あすかやま》へ、お花見《はなみ》に出《で》かけたあの時《とき》、いつもの通《とお》り、あたしとお前《まえ》とは夫婦《ふうふ》でござんした。幔幕《まんまく》を張《は》りめぐらした、どこぞの御大家《ごたいけ》の中《なか》へ、迷《まよ》い込《こ》んだあたし達《たち》は、それお前《まえ》も覚《おぼ》えてであろ。絵《え》にあるような綺麗《きれい》な、お嬢様《じょうさま》に何《なに》やかやと御馳走《ごちそう》を頂戴《ちょうだい》した挙句《あげく》、お化粧直《けしょうなお》しの幕《まく》の隅《すみ》で、あたしはお前《まえ》に、お前《まえ》はあたしに、互《たがい》にお化粧《けしょう》をしあって、この子達《こたち》、もう小《こ》十|年《ねん》も経《た》ったなら、きっと惚《ほ》れ惚《ぼ》れするように美《うつく》しくなるであろうと、お世辞《せじ》にほめて頂《いただ》いた、あの夢《ゆめ》のような日《ひ》のことが、いまだにはっきり眼《め》に残《のこ》って……吉《きち》ちゃん。あたしゃ今こそお前《まえ》に、精根《せいこん》をつくしたお化粧《けしょう》を、してあげとうござんす。――紅白粉《べにおしろい》は、家《いえ》を出《で》る時《とき》袱紗《ふくさ》に包《つつ》んで持《も》って来《き》ました。あたしの遣《つか》いふるしでござんすが、この紅筆《べにふで》は、お前《まえ》が王子《おうじ》を越《こ》す時《とき》に、あたしにおくんなすった。今では形見《かたみ》。役者衆《やくしゃしゅう》の、お前《まえ》のお気《き》に入《い》るように出来《でき》ますまいけれど、辛抱《しんぼう》しておくんなさい。せめてもの、あたしの心《こころ》づくしでござんす」
北《きた》を枕《まくら》に、静《しず》かに眼《め》を閉《と》じている菊之丞《きくのじょう》の、女《おんな》にもみまほしいまでに美《うつく》しく澄《す》んだ顔《かお》は、磁器《じき》の肌《はだ》のように冷《つめ》たかった。
白粉刷毛《おしろいばけ》を持《も》ったおせんの
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