|匹《ぴき》の虻《あぶ》を、猫《ねこ》が頻《しき》りに尾《お》を振《ふ》ってじゃれる影《かげ》が、障子《しょうじ》にくっきり映《うつ》っていた。
 その虻《あぶ》の羽音《はおと》を、聞《き》くともなしに聞《き》きながら、菊之丞《きくのじょう》の枕頭《ちんとう》に座《ざ》して、じっと寝顔《ねがお》に見入《みい》っていたのは、お七の着付《きつけ》もあでやかなおせんだった。
 紫《むらさき》の香煙《こうえん》が、ひともとすなおに立昇《たちのぼ》って、南向《みなみむ》きの座敷《ざしき》は、硝子張《ギヤマンばり》の中《なか》のように暖《あたた》かい。
 七|年目《ねんめ》で会《あ》った、たった二人《ふたり》の世界《せかい》。殆《ほと》んど一|夜《や》のうちに生気《せいき》を失《うしな》ってしまった菊之丞《きくのじょう》の、なかば開《ひら》かれた眼《め》からは、糸《いと》のような涙《なみだ》が一|筋《すじ》頬《ほほ》を伝《つた》わって、枕《まくら》を濡《ぬ》らしていた。
「おせんちゃん」
 菊之丞《きくのじょう》の声《こえ》は、わずかに聞《き》かれるくらい低《ひく》かった。
「あい」
「よく来《き》てくれた」
「太夫《たゆう》さん」
「太夫《たゆう》さんなぞと呼《よ》ばずに、やっぱり昔《むかし》の通《とおり》り、吉《きち》ちゃんと呼《よ》んでおくれな」
「そんなら、吉《きち》ちゃん。――」
「はい」
「あたしゃ、会《あ》いとうござんした」
「あたしも会《あ》いたかった。――こういったら、お前《まえ》さんはさだめし、心《こころ》にもないことをいうと、お想《おも》いだろうが、決して嘘《うそ》でもなけりゃ、お世辞《せじ》でもない。――知《し》っての通《とお》り、あたしゃどうやら人気《にんき》も出《で》て、世間様《せけんさま》からなんのかのと、いわれているけれど、心《こころ》はやっぱり十|年前《ねんまえ》もおなじこと。義理《ぎり》でもらった女房《にょうぼう》より、浮気《うわき》でかこった女《おんな》より、心《しん》から思《おも》うのはお前《まえ》の身《み》の上《うえ》。暑《あつ》いにつけ、寒《さむ》いにつけ、切《せつ》ない思《おも》いは、いつも谷中《やなか》の空《そら》に通《かよ》ってはいたが、今《いま》ではお前《まえ》も人気娘《にんきむすめ》、うっかりあたしが訪《たず》ねたら、あらぬ浮名《うきな》を立《た》てられて、さぞ迷惑《めいわく》でもあろうかと、きょうが日《ひ》まで、辛抱《しんぼう》して来《き》ましたのさ」
「勿体《もったい》ない、太夫《たゆう》さん。――」
「いいえ、勿体《もったい》ないより、済《す》まないのはあたしの心《こころ》。役者家業《やくしゃかぎょう》の憂《う》さ辛《つら》さは、どれ程《ほど》いやだとおもっても、御贔屓《ごひいき》からのお迎《むか》えよ。お座敷《ざしき》よといわれれば、三|度《ど》に一|度《ど》は出向《でむ》いて行《い》って、笑顔《えがお》のひとつも見《み》せねばならず、そのたび毎《ごと》に、ああいやだ、こんな家業《かぎょう》はきょうは止《よ》そうか、明日《あす》やめようかと思《おも》うものの、さて未練《みれん》は舞台《ぶたい》。このまま引《ひ》いてしまったら、折角《せっかく》鍛《きた》えたおのが芸《げい》を、根《ね》こそぎ棄《す》てなければならぬ悲《かな》しさ。それゆえ、秋《あき》の野《の》に鳴《な》く虫《むし》にも劣《おと》る、はかない月日《つきひ》を過《す》ごして来《き》たが、……おせんちゃん。それもこれも、今《いま》はもうきのうの夢《ゆめ》と消《き》えるばかり。所詮《しょせん》は会《あ》えないものと、あきらめていた矢先《やさき》、ほんとうによく来《き》てくれた。あたしゃこのまま死《し》んでも、思《おも》い残《のこ》すことはない。――」
「もし、吉《きち》ちゃん」
「おお」
「しっかりしておくんなさい。羞《はず》かしながら、お前《まえ》がなくてはこの世《よ》の中《なか》に、誰《だれ》を思《おも》って生《い》きようやら、おまえ一人《ひとり》を、胸《むね》にひそめて来《き》たあたし。あたしに死《し》ねというのなら、たった今《いま》でも、身代《みがわ》りにもなりましょう。――のう吉《きち》ちゃん。たとえ一|夜《や》の枕《まくら》は交《かわ》さずとも、あたしゃおまえの女房《にょうぼう》だぞえ。これ、もうし吉《きち》ちゃん。返事《へんじ》のないのは、不承知《ふしょうち》かえ」
 一|膝《ひざ》ずつ乗出《のりだ》したおせんは、頬《ほほ》がすれすれになるまでに、菊之丞《きくのじょう》の顔《かお》を覗《のぞ》き込《こ》んだが、やがてその眼《め》は、仏像《ぶつぞう》のようにすわって行《い》った。
「吉《きち》ちゃん。――太夫
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