、ふと、夏《なつ》の軒端《のきば》につり残《のこ》されていた風鈴《ふうりん》の音《おと》に、重《おも》い眼《め》を開《あ》けてあたりを見廻《みまわ》した。
 医者《いしゃ》の玄庵《げんあん》をはじめ、妻《つま》のおむら、座元《ざもと》の羽左衛門《うざえもん》、三五|郎《ろう》、彦《ひこ》三|郎《ろう》、その他《た》の人達《ひとたち》が、ぐるりと枕許《まくらもと》に車座《くるまざ》になって、何《なに》かひそひそと語《かた》り合《あ》っている声《こえ》が、遠《とお》い国《くに》の出来事《できごと》のように聞《きこ》えていた。
「おお、あなた。――」
 最初《さいしょ》におむらが、声《こえ》をかけた。が、菊之丞《きくのじょう》の心《こころ》には、声《こえ》の主《ぬし》が誰《だれ》であるのか、まだはっきり映《うつ》らなかったのであろう。きょろりと一|度《ど》見廻《みまわ》したきり、再《ふたた》び眼《め》を閉《と》じてしまった。
 玄庵《げんあん》は徐《しず》かに手《て》を振《ふ》った。
「どなたもお静《しず》かに。――」
「はい」
 急《きゅう》に水《みず》を打《う》ったような静《しず》けさに還《かえ》った部屋《へや》の中《なか》には、ただ香《こう》のかおりが、低《ひく》く這《は》っているばかりであった。
 玄庵《げんあん》は、夜着《よぎ》の下《した》へ手《て》を入《い》れて、かるく菊之丞《きくのじょう》の手首《てくび》を掴《つか》んだまま首《くび》をひねった。
「先生《せんせい》、如何《いかが》でございます」
「脈《みゃく》に力《ちから》が出《で》たようじゃが。……」
「それはまァ、うれしゅうござんす」
「だが御安心《ごあんしん》は御無用《ごむよう》じゃ。いつ何時《なんどき》変化《へんか》があるか判《わか》らぬからのう」
「はい」
「お見舞《みまい》の方々《かたがた》も、次《つぎ》の間《ま》にお引取《ひきと》りなすってはどうじゃの、御病人《ごびょうにん》は、出来《でき》るだけ安静《あんせい》に、休《やす》ませてあげるとよいと思《おも》うでの」
「はいはい」と羽左衛門《うざえもん》が大《おお》きくうなずいた。「如何《いか》にも御《ご》もっともでございます。――では、ここはおかみさんにお願《ねが》い申《もう》して、次《つぎ》へ下《さが》っていることにいたしましょう」
「それがようござる。及《およ》ばずながら愚老《ぐろう》が看護《かんご》して居《い》る以上《いじょう》、手落《ておち》はいたさぬ考《かんが》えじゃ」
「何分共《なにぶんとも》にお願《ねが》い申上《もうしあ》げます」
 一|同《どう》は足音《あしおと》を忍《しの》ばせて、襖《ふすま》の開《あ》けたてにも気《き》を配《くば》りながら、次《つぎ》の間《ま》へ出《で》て行《い》った。
 暫《しば》し、鉄瓶《てつびん》のたぎる音《おと》のみが、部屋《へや》のしじまに明《あか》るく残《のこ》された。
「御内儀《ごないぎ》」
 玄庵《げんあん》の声《こえ》は、低《ひく》く重《おも》かった。
「はい」
「お気《き》の毒《どく》でござるが、太夫《たゆう》はもはや、一|時《とき》の命《いのち》じゃ」
「えッ」
「いや静《しず》かに。――ただ今《いま》、脈《みゃく》に力《ちから》が出《で》たようじゃと申上《もうしあ》げたが、実《じつ》は他《た》の方々《かたがた》の手前《てまえ》をかねたまでのこと。心臓《しんぞう》も、微《かす》かに温《ぬく》みを保《たも》っているだけのことじゃ」
「それではもはや」
 おむらの、今《いま》まで辛抱《しんぼう》に辛抱《しんぼう》を重《かさ》ねていた眼《め》からは、玉《たま》のような涙《なみだ》が、頬《ほほ》を伝《つたわ》って溢《あふ》れ落《お》ちた。
 やがて、香煙《こうえん》を揺《ゆる》がせて、恐《おそ》る恐《おそ》る襖《ふすま》の間《あいだ》から首《くび》を差出《さしだ》したのは、弟子《でし》の菊彌《きくや》だった。
「お客様《きゃくさま》でございます」
「どなたが」
「谷中《やなか》のおせん様《さま》」
「えッ、あの笠森《かさもり》の。……」
「はい」
「太夫《たゆう》は御病気《ごびょうき》ゆえ、お目《め》にかかれぬと、お断《ことわ》りしておくれ」
 するとその刹那《せつな》、ぱっと眼《め》を開《あ》いて菊之丞《きくのじょう》の、細《ほそ》い声《こえ》が鋭《するど》く聞《きこ》えた。
「いいよ。いいから、ここへお通《とお》し。――」

    六

 初霜《はつしも》を避《さ》けて、昨夜《さくや》縁《えん》に上《あ》げられた白菊《しらぎく》であろう、下葉《したは》から次第《しだい》に枯《か》れてゆく花《はな》の周囲《しゅうい》を、静《しず》かに舞《ま》っている一
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