者《いしゃ》の見舞《みまい》としか想《おも》われなかった駕籠《かご》の周囲《まわり》は、いつの間《ま》にやら五|人《にん》十|人《にん》の男女《だんじょ》で、百|万遍《まんべん》のように取囲《とりかこ》んで、追《お》えば追《お》う程《ほど》、その数《かず》は増《ま》して来《く》るばかりであった。
「ちょいとお前《まえ》さん、何《な》んだってあんなお医者《いしゃ》の駕籠《かご》に、くッついて歩《ある》いているのさ」
「なんだ神田《かんだ》の、明神様《みょうじんさま》の石《いし》の鳥居《とりい》じゃないが、お前《まえ》さんもき[#「き」に傍点]がなさ過《す》ぎるよ。ありゃァただのお医者様《おいしゃさま》の駕籠《かご》じゃないよ」
「だってお辰《たっ》つぁん、どう見《み》たって。……」
「叱《し》ッ、静《しず》かにおしなね。あン中《なか》にゃ、浜村屋《はまむらや》の太夫《たゆう》さんが乗《の》ってるんだよ」
「浜村屋《はまむらや》の太夫《たゆう》さん。――」
「そうさ。きのう舞台《ぶたい》で倒《たお》れたまま、今《いま》が今《いま》まで、楽屋《がくや》で寝《ね》てえたんじゃないか。それをお前《まえ》さん、どうでも家《うち》へ帰《かえ》りたいと駄々《だだ》をこねて、とうとうあんな塩梅式《あんばいしき》に、お医者《いしゃ》と見《み》せて帰《かえ》る途中《とちゅう》だッてことさ」
「おやまァ、そんならそこを退《ど》いとくれよ」
「なぜ」
「あたしゃ駕籠《かご》の傍《そば》へ行《い》って、せめて太夫《たゆう》さんに、一|言《こと》でもお見舞《みまい》がいいたいンだから。……」
「何《なに》をいうのさ。太夫《たゆう》は大病人《だいびょうにん》なんだよ。ちっとだッて騒《さわ》いだりしちゃァ、体《からだ》に障《さわ》らァね。一|緒《しょ》について行《ゆ》くなァいいが、こッから先《さき》へは出《で》ちゃならねえよ」
「いいから退《ど》いとくれッたら」
「おや痛《いた》い、抓《つね》らなくッてもいいじゃないか」
「退《ど》かないからさ」
「おや、また抓《つね》ったね」
髪結《かみゆい》のお辰《たつ》と、豆腐屋《とうふや》の娘《むすめ》のお亀《かめ》とが、いいのいけないのと争《あらそ》っているうちに、駕籠《かご》は更《さら》に多《おお》くの人数《にんず》に取巻《とりま》かれながら、芳町通《よしちょうどお》りを左《ひだり》へ、おやじ橋《ばし》を渡《わた》って、牛《うし》の歩《あゆ》みよりもゆるやかに進《すす》んでいた。
菊之丞《きくのじょう》の駕籠《かご》を一|町《ちょう》ばかり隔《へだ》てて、あたかも葬式《そうしき》でも送《おく》るように悵然《ちょうぜん》と首《くび》を垂《た》れたまま、一|足毎《あしごと》に重《おも》い歩《あゆ》みを続《つづ》けていたのは、市村座《いちむらざ》の座元《ざもと》羽左衛門《うざえもん》をはじめ、坂東《ばんどう》彦《ひこ》三|郎《ろう》、尾上《おのえ》菊《きく》五|郎《ろう》、嵐《あらし》三五|郎《ろう》、それに元服《げんぷく》したばかりの尾上松助《おのえまつすけ》などの一|行《こう》であった。
いずれも編笠《あみがさ》で深《ふか》く顔《かお》を隠《かく》したまま、眼《め》をしばたたくのみで、互《たがい》に一|言《ごん》も発《はっ》しなかったが、急《きゅう》に何《なに》か思《おも》いだしたのであろう。羽左衛門《うざえもん》は、寂《さび》しく眉《まゆ》をひそめた。
「松助《まつすけ》さん」
「はい」
「お前《まえ》さんは、折角《せっかく》だが、ここから帰《かえ》る方《ほう》がいいようだの」
「なぜでございます」
「不吉《ふきつ》なことをいうようだが、浜村屋《はまむらや》さんはひょっとすると、あのままいけなくなるかも知《し》れないからの」
「ええ滅相《めっそう》な。左様《さよう》なことがおますかいな」
そういって眼《め》をみはったのは嵐《あらし》三五|郎《ろう》であった。
「いや、わたしとて、太夫《たゆう》に元《もと》のようになってもらいたいのは山々《やまやま》だが、今《いま》までの太夫《たゆう》の様子《ようす》では、どうも難《むず》かしかろうと思《おも》われる。縁起《えんぎ》でもないことだが、ゆうべわたしは、上下《じょうげ》の歯《は》が一|本《ぽん》残《のこ》らず、脱《ぬ》けてしまった夢《ゆめ》を見《み》ました。情《なさけ》ないが、所詮《しょせん》太夫《たゆう》は助《たす》かるまい」
羽左衛門《うざえもん》はそういって、寂《さび》しそうに眉《まゆ》をひそめた。
五
夢《ゆめ》から夢《ゆめ》を辿《たど》りながら、更《さら》に夢《ゆめ》の世界《せかい》をさ迷《まよ》い続《つづ》けていた菊之丞《はまむらや》は
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