我《けが》でもしたのではないかと、穴《あな》のあく程《ほど》じッと見詰《みつ》めながら、静《しず》かに肩《かた》へ手《て》をかけたが、いつもと様子《ようす》の違《ちが》ったおせんは、母《はは》の手《て》を振《ふ》り払《はら》うようにして、そのまま畳《たたみ》ざわりも荒《あら》く、おのが居間《いま》へ駆《か》け込《こ》んで行《い》った。
「どうおしだよ、おせん」
「お母《っか》さん、あたしゃ、どうしよう」
「まァおまえ。……」
「吉《きち》ちゃんが、――あの菊之丞《きくのじょう》さんが、急病《きゅうびょう》との事《こと》でござんす」
「なんとえ。太夫《たゆう》さんが急病《きゅうびょう》とえ。――」
「あい。――あたしゃもう、生《い》きてる空《そら》がござんせぬ」
「何《なに》をおいいだえ。そんな気《き》の弱《よわ》いことでどうするものか。人《ひと》の口《くち》は、どうにでもいえるもの。急病《きゅうびょう》といったところが、どこまで本当《ほんとう》のことかわかったものではあるまいし。……」
「いえいえ、嘘《うそ》でも夢《ゆめ》でもござんせぬ。あたしゃたしかに、この耳《みみ》で聞《き》いて来《き》ました。これから直《す》ぐに市村座《いちむらざ》の楽屋《がくや》へお見舞《みまい》に行《い》って来《き》とうござんす。お母《っか》さん、そのお七の衣装《いしょう》を脱《ぬ》がせておくんなさいまし」
「えッ、これをおまえ」
「吉《きち》ちゃんが、去年《きょねん》の芝居《しばい》が済《す》んだ時《とき》、黙《だま》って届《とど》けておくんなすったお七の衣装《いしょう》、あたしに着《き》ろとの謎《なぞ》でござんしょう」
「それでもこれは。――」
「お母《っか》さん」
 おせんは、部屋《へや》の隅《すみ》に立《た》てかけてある人形《にんぎょう》の傍《そば》へ、自分《じぶん》から歩《あゆ》み寄《よ》ると、いきなり帯《おび》に手《て》をかけて、まるで芝居《しばい》の衣装着《いしょうつ》けがするように、如何《いか》にも無造作《むぞうさ》に衣装《いしょう》を脱《ぬ》がせ始《はじ》めた。
「お止《よ》し」
「いいえ、もう何《な》んにもいわないでおくんなさい。あたしゃお七とおんなじ心《こころ》で、太夫《たゆう》に会《あ》いに行《ゆ》きとうござんす」
 ばらりと解《と》いたお七の帯《おび》には、夜毎《よごと》に焚《た》きこめた伽羅《きゃら》の香《かお》りが悲《かな》しく籠《こも》って、静《しず》かに部屋《へや》の中《なか》を流《なが》れそめた。
「ああ。――」
 おせんはその帯《おび》を、ずッと胸《むね》に抱《だ》きしめた。
「おせんや」
 お岸《きし》は優《やさ》し眼《め》をふせた。
「あい」
「おまえ、一人《ひとり》で行《い》く気《き》かえ」
「あい」
 衣装《いしょう》を脱《ぬ》がせて、襦袢《じゅばん》を脱《ぬ》がせて、屏風《びょうぶ》のかげへ這入《はい》ったおせんは、素速《すばや》くおのが着物《きもの》と着換《きか》えた。と、この時《とき》格子戸《こうしど》の外《そと》から降《ふ》って湧《わ》いたように、男《おとこ》の声《こえ》が大《おお》きく聞《きこ》えた。
「おせんさん、仮名床《かなどこ》の伝吉《でんきち》でござんす。浜村屋《はまむらや》の太夫《たゆう》さんが、急病《きゅうびょう》と聞《き》いて、何《なに》より先《さき》にお知《し》らせしてえと、駕籠《かご》を飛《と》ばしてやってめえりやした。笠森様《かさもりさま》においでがねえんでこっちへ廻《まわ》って来《き》やした始末《しまつ》。ちっとも速《はや》く、葺屋町《ふきやちょう》へ行《い》っとくンなせえやし」
「親方《おやかた》、その駕籠《かご》を、待《ま》たせといておくんなさい」
「合点《がってん》でげす」
 おせんの声《こえ》は、いつになく甲高《かんだか》かった。

    四

 人目《ひとめ》を避《さ》けるために、わざと蓙巻《ござまき》を深《ふか》く垂《た》れた医者駕籠《いしゃかご》に乗《の》せて、男衆《おとこしゅう》と弟子《でし》の二人《ふたり》だけが付添《つきそ》ったまま、菊之丞《きくのじょう》の不随《ふずい》の体《からだ》は、その日《ひ》の午近《ひるちか》くに、石町《こくちょう》の住居《すまい》に運《はこ》ばれて行《い》った。
 が、たださえ人気《にんき》の頂点《ちょうてん》にある菊之丞《きくのじょう》が、舞台《ぶたい》で倒《たお》れたとの噂《うわさ》は、忽《たちま》ち人《ひと》から人《ひと》へ伝《つた》えられて、今《いま》は江戸《えど》の隅々《すみずみ》まで、知《し》らぬはこけ[#「こけ」に傍点]の骨頂《こっちょう》とさえいわれるまでになっていた。他目《はため》からは、どう見《み》ても医
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