んてざまなんだ。手間《てま》が惜《お》しさに見舞《みまい》にも行《ゆ》かねえしみッたれ野郎《やろう》だ、とそれこそ口《くち》をそろえて悪《わる》くいわれるなァ、加賀様《かがさま》の門《もん》よりもよく判《わか》ってるぜ。――つまらねえ理屈《りくつ》ァいわねえで、速《はや》く羽織《はおり》を着《き》せねえかい。こうなったり一|刻《こく》だって、待《ま》てしばしはねえんだ」
お花《はな》の手《て》から羽織《はおり》を引《ひ》ッたくった伝吉《でんきち》は、背筋《せすじ》が二|寸《すん》も曲《ま》がったなりに引《ひ》ッかけると、もう一|度《ど》お花《はな》の手《て》を振《ふ》りもぎって、喧嘩犬《けんかいぬ》のように、夢中《むちゅう》で見世《みせ》を飛《と》び出《だ》した。
「待《ま》ちねえ、伝《でん》さん」
長兵衛《ちょうべえ》は背後《うしろ》から声《こえ》をかけた。
「何《な》んの用《よう》だ」
「用《よう》じゃァねえが、おかみさんもああいうンだから、晩《ばん》にしたらどうだ。どうせいま行《い》ったって、会《あ》えるもんでもねえンだから。――」
「ふん、おめえまで、余計《よけい》なことはおいてくんねえ。おいらの足《あし》でおいらが歩《ある》いてくんだ。どこへ行《い》こうが勝手《かって》じゃねえか」
「ほう、大《おお》まかに出《で》やァがったな。話《はなし》をしたなァおれなんだぜ。行《ゆ》くんなら、せめておれの髯《ひげ》だけでもあたッてッてくんねえ」
「髯《ひげ》は帰《けえ》って来《き》てからだ」
「帰《かえ》って来《き》てからじゃ、間《ま》に合《あ》わねえよ」
「間《ま》に合《あ》わなかったら、どこいでも行《い》って、やってもらって来《く》るがいいやな。――ええもう面倒臭《めんどうくせ》え、四の五のいってるうちに、日《ひ》が暮《く》れちまわァ」
前つぼの固《かた》い草履《ぞうり》の先《さき》で砂《すな》を蹴《け》って、一|目散《もくさん》に駆《か》け出《だ》した伝吉《でんきち》は、提灯屋《ちょうちんや》の角《かど》まで来《く》ると、ふと立停《たちどま》って小首《こくび》を傾《かし》げた。
「待《ま》てよ。こいつァ市村座《いちむらざ》へ行《ゆ》くより先《さき》に、もっと大事《だいじ》なところがあるぜ。――そうだ。まだおせんちゃんが知《し》らねえかもしれねえ。こんな時《とき》に人情《にんじょう》を見《み》せてやるのが、江戸《えど》ッ子《こ》の腹《はら》の見《み》せどこだ。よし、ひとつ駕籠《かご》をはずんで、谷中《やなか》まで突《つ》ッ走《ぱし》ってやろう」
大《おお》きく頷《うなず》いた伝吉《でんきち》は、折《おり》から通《とお》り合《あわ》せた辻駕籠《つじかご》を呼《よ》び止《と》めて、笠森稲荷《かさもりいなり》の境内《けいだい》までだと、酒手《さかて》をはずんで乗《の》り込《こ》んだ。
「急《いそ》いでくんねえよ」
「ようがす」
「急病人《きゅうびょうにん》の知《し》らせに行《ゆ》くんだからの」
「合点《がってん》だ」
返事《へんじ》は如何《いか》にも調子《ちょうし》がよかったが、肝腎《かんじん》の駕籠《かご》は、一|向《こう》突《つ》ッ走《ぱし》ってはくれなかった。
「ちぇッ。吉原《よしわら》だといやァ、豪勢《ごうせい》飛《と》びゃァがるくせに、谷中《やなか》の病人《びょうにん》の知《し》らせだと聞《き》いて、馬鹿《ばか》にしてやがるんだろう。伝吉《でんきち》ァただの床屋《とこや》じゃねえんだぜ。当時《とうじ》江戸《えど》で名高《なだけ》え笠森《かさもり》おせんの、襟《えり》を剃《あた》るなァおいらより外《ほか》にゃ、広《ひろ》い江戸中《えどじゅう》に二人《ふたり》たねえんだ」
伝吉《でんきち》が駕籠《かご》の中《なか》で鼻《はな》の頭《あたま》を引《ひ》ッこすってのひとり啖呵《たんか》も、駕籠屋《かごや》には少《すこ》しの効《き》き目《め》もないらしく、駕籠《かご》の歩《あゆ》みは、依然《いぜん》として緩《ゆる》やかだった。
三
床屋《とこや》の伝吉《でんきち》が、笠森《かさもり》の境内《けいだい》へ着《つ》いたその時分《じぶん》、春信《はるのぶ》の住居《すまい》で、菊之丞《きくのじょう》の急病《きゅうびょう》を聞《き》いたおせんは無我夢中《むがむちゅう》でおのが家《いえ》の敷居《しきい》を跨《また》いでいた。
「お母《っか》さん」
「おやおまえ、どうしたというの、何《なに》かお見世《みせ》にあったのかい」
今《いま》ごろ帰《かえ》って来《こ》ようとは、夢《ゆめ》にも考《かんが》えていなかったお岸《きし》は、慌《あわただ》しく駆《か》け込《こ》んで来《き》たおせんの姿《すがた》を見《み》ると、まず、怪
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