おいらァ誰《だれ》が好きだといって、浜村屋《はまむらや》の太夫《たゆう》くれえ、好《す》きな役者衆《やくしゃしゅう》はねえんだよ。芸《げい》がよくって愛嬌《あいきょう》があって、おまけに自慢気《じまんげ》なんざ薬《くすり》にしたくもねえッてお人《ひと》だ。――どこが悪《わる》くッて、どう倒《たお》れたんだか、さ、そこをおいらに、委《くわ》しく話《はな》して聞《き》かしてくんねえ」
どやしつけられた、背中《せなか》の痛《いた》さもけろりと忘《わす》れて、伝吉《でんきち》は、元結《もとゆい》が輪《わ》から抜《ぬ》けて足元《あしもと》へ散《ち》らばったのさえ気付《きづ》かずに夢中《むちゅう》で長兵衛《ちょうべえ》の方《ほう》へ膝《ひざ》をすり寄《よ》せた。
「丁度《ちょうど》二|番目《ばんめ》の、所作事《しょさごと》の幕《まく》に近《ちけ》え時分《じぶん》だと思《おも》いねえ。知《し》っての通《とお》りこの狂言《きょうげん》は、三五|郎《ろう》さんの頼朝《よりとも》に、羽左衛門《うざえもん》さんの梶原《かじわら》、それに太夫《たゆう》は鷺娘《さぎむすめ》で出《で》るという、豊前《ぶぜん》さんの浄瑠璃《じょうるり》としっくり合《あ》った、今度《こんど》の芝居《しばい》の呼《よ》び物《もの》だろうじゃねえか。はね[#「はね」に傍点]に近《ちか》くなったって、お客《きゃく》は唯《ただ》の一人《ひとり》だって、立《た》とうなんて料簡《りょうけん》の者《もの》ァねえやな。舞台《ぶたい》ははずむ、お客《きゃく》はそろって一|寸《すん》でも先《さき》へ首《くび》を出《だ》そうとする。いわば紙《かみ》一|重《え》の隙《すき》もねえッてとこだった。どうしたはずみか、太夫《たゆう》の踊《おど》ってた足《あし》が、躓《つまず》いたようによろよろっとしたかと思《おも》うと、あッという間《ま》もなく、舞台《ぶたい》へまともに突《つ》ッ俯《ぷ》しちまったんだ。――客席《きゃくせき》からは浜村屋《はまむらや》ッという声《こえ》が、石《いし》を投《な》げるように聞《き》こえて来《く》るかと思《おも》うと、御贔屓《ごひいき》の泣《な》く声《こえ》、喚《わめ》く声《こえ》、そいつが忽《たちま》ち渦巻《うずまき》になって、わッわッといってるうちに、道具方《どうぐかた》が気《き》を利《き》かして幕《まく》を引《ひ》いたんだが、そりゃおめえ、ここでおれが話《はなし》をしてるようなもんじゃァねえ、芝居中《しばいじゅう》がひっくり返《かえ》るような大騒《おおさわ》ぎだ。――そのうちに頭取《とうどり》が駆《か》け着《つ》ける、弟子達《でしたち》が集《あつ》まるで、倒《たお》れた太夫《たゆう》を、鷺娘《さぎむすめ》の衣装《いしょう》のまま楽屋《がくや》へかつぎ込《こ》んじまったが、まだおめえ、宗庵先生《そうあんせんせい》のお許《ゆる》しが出《で》ねえから、太夫《たゆう》は楽屋《がくや》に寝《ね》かしたまま、家《うち》へも帰《けえ》れねえんだ」
「よし、お花《はな》、おいらに羽織《はおり》を出《だ》してくんねえ」
伝吉《でんきち》は突然《とつぜん》こういって立上《たちあが》った。
二
「お前《まえ》さん、どこへ行《ゆ》くんだよ。真《ま》ッ昼間《ぴるま》ッからお見世《みせ》を空《あ》けて出《で》て行《い》ったんじゃ、お客様《きゃくさま》に申訳《もうしわけ》がないじゃないか。太夫《たゆう》さんとこへお見舞《みまい》に行《ゆ》くなら、日《ひ》が暮《く》れてからにしとくれよ。――ようッてば」
下剃《したぞり》一人《ひとり》をおいて出《で》られたのでは、家業《かぎょう》に障《さわ》ると思《おも》ったのであろう。一|張羅《ちょうら》の羽織《はおり》を、渋々《しぶしぶ》箪笥《たんす》から出《だ》して来《き》たお花《はな》は、亭主《ていしゅ》の伝吉《でんきち》の袖《そで》をおさえて、無理《むり》にも引止《ひきと》めようと顔《かお》を窺《のぞ》き込《こ》んだ。
が、伝吉《でんきち》は、いきなり吐《は》きだすようにけんのみ[#「けんのみ」に傍点]を食《く》わせた。
「馬鹿野郎《ばかやろう》。何《なに》をいってやがるんだ。亭主《ていしゅ》のすることに、女《おんな》なんぞが口《くち》を出《だ》すこたァねえから黙《だま》って引《ひ》ッ込《こ》んでろ。外《ほか》のことならともかく、太夫《たゆう》が急病《きゅうびょう》だッてのを、そのままにしといたんじゃ、世間《せけん》の奴等《やつら》になんていわれると思《おも》うんだ。仮名床《かなどこ》の伝吉《でんきち》の奴《やつ》ァ、ふだん浜村屋《はまむらや》が好《す》きだの蜂《はち》の頭《あたま》だのと、口幅《くちはば》ッてえことをいってやがるくせに、な
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