うまや》で、好《す》きな勝負《しょうぶ》をしてでござんしょうが、文《ふみ》を御覧《ごらん》なすった若旦那《わかだんな》が、まッことあたしからのお願《ねが》いとお思《おも》いなされて、大枚《たいまい》のお宝《たから》をお貸《か》し下《くだ》さいましたら、これから先《さき》あたしゃ若旦那《わかだんな》から、どのような難題《なんだい》をいわれても、返《かえ》す言葉《ことば》がござんせぬ。――お師匠《ししょう》さん。何《なん》としたらよいものでござんしょう」
まったく途方《とほう》に暮《く》れたのであろう。春信《はるのぶ》の顔《かお》を見《み》あげたおせんの瞼《まぶた》は、露《つゆ》を含《ふく》んだ花弁《かべん》のように潤《うる》んで見《み》えた。
「さァてのう」
腕《うで》をこまねいて、あごを引《ひ》いた春信《はるのぶ》は、暫《しば》し己《おの》が膝《ひざ》の上《うえ》を見詰《みつ》めていたが、やがて徐《おもむろ》に首《くび》を振《ふ》った。
「徳《とく》さんも、人《ひと》の心《こころ》の読《よ》めない程《ほど》馬鹿《ばか》でもなかろう。どのような文句《もんく》を書《か》いた文《ふみ》か知《し》らないが、その文《ふみ》一|本《ぽん》で、まさか二十五|両《りょう》の大金《たいきん》は出《だ》すまいよ」
「それでも兄《にい》さんは、ただの二|字《じ》でも三|字《じ》でも、あたしの書《か》いた文《ふみ》さえ持《も》って行《い》けば、お金《かね》は右《みぎ》から左《ひだり》とのことでござんした」
「そりゃ、いつのことだの」
「ゆうべでござんす」
おせんがもう一|度《ど》、顔《かお》を上《あ》げた時《とき》であった。突然《とつぜん》障子《しょうじ》の外《そと》から、藤吉《とうきち》の声《こえ》が低《ひく》く聞《きこ》えた。
「おせんさん、大変《たいへん》なことができましたぜ。浜村屋《はまむらや》の太夫《たゆう》が、急病《きゅうびょう》だってこった」
おせんは「はッ」と胸《むね》が詰《つ》まって、直《す》ぐには口《くち》が听《き》けなかった。
夢《ゆめ》
一
子《ね》、丑《うし》、寅《とら》、卯《う》、辰《たつ》、巳《み》、――と、客《きゃく》のない上《あが》りかまち[#「かまち」に傍点]に腰《こし》をかけて、独《ひと》り十二|支《し》を順《じゅん》に指折《ゆびお》り数《かぞ》えていた、仮名床《かなどこ》の亭主《ていしゅ》伝吉《でんきち》は、いきなり、息《いき》がつまるくらい荒《あら》ッぽく、拳固《げんこ》で背中《せなか》をどやしつけられた。
「痛《いて》ッ。――だ、だれだ」
「だれだじゃねえや、てえへんなことがおっ始《ぱじ》まったんだ。子丑寅《ねうしとら》もなんにもあったもんじゃねえ。あしたッから、うちの小屋《こや》は開《あ》かねえかも知《し》れねえぜ」
火事場《かじば》の纏持《まといもち》のように、息《いき》せき切《き》って駆《か》け込《こ》んで来《き》たのは、同《おな》じ町内《ちょうない》に住《す》む市村座《いちむらざ》の木戸番《きどばん》長兵衛《ちょうべえ》であった。
伝吉《でんきち》はぎょっとして、もう一|度《ど》長兵衛《ちょうべえ》の顔《かお》を見直《みなお》した。
「な、なにがあったんだ」
「なにがも、かにがもあるもんじゃねえ、まかり間違《まちが》や、てえした騒《さわ》ぎになろうッてんだ。おめえンとこだって、芝居《しばい》のこぼれを拾《ひろ》ってる家業《かぎょう》なら、万更《まんざら》かかり合《あい》のねえこともなかろう。こけ[#「こけ」に傍点]が秋刀魚《さんま》の勘定《かんじょう》でもしてやしめえし、指《ゆび》なんぞ折《お》ってる時《とき》じゃありゃァしねえぜ」
「いってえ、どうしたッてんだ、長《ちょう》さん」
「おめえ、まだ判《わか》らねえのか」
「聞《き》かねえことにゃ判《わか》らねえや」
「なんて血《ち》のめぐりが悪《わる》く出来《でき》てるんだ。――浜村屋《はまむらや》の太夫《たゆう》が、舞台《ぶたい》で踊《おど》ってたまま倒《たお》れちゃったんだ」
「何《な》んだッてそいつァおめえ、本当《ほんとう》かい」
「おれにゃ、嘘《うそ》と坊主《ぼうず》の頭《あたま》ァいえねえよ。――仮《かり》にもおんなじ芝居《しばい》の者《もの》が、こんなことを、ありもしねえのにいって見《み》ねえ。それこそ簀巻《すまき》にして、隅田川《すみだがわ》のまん中《なか》へおッ放《ぽ》り込《こ》まれらァな」
「長《ちょう》さん」
「ええびっくりするじゃねえか。急《きゅう》にそんな大《おお》きな声《こえ》なんざ、出《だ》さねえでくんねえ」
「何《なに》をいってるんだ。これがおめえ、こそこそ話《ばなし》にしてられるかい。
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