うろく》しちゃァいねえよ。ありゃァ菊之丞《きくのじょう》に違《ちげ》えあるめえ」
「確《たしか》にそうたァ申上《もうしあげ》られねえんで。……」
「おめえ、眼《め》が上《あが》ったな。判《わか》った。――もういいから帰《けえ》ンな」
「有難《ありがと》うござんすが、――親方《おやかた》、あれがもしか浜村屋《はまむらや》だったら、どうなせえやすんで。……」
「どうもしやァしねえ」
「どうもしねンなら、何《なに》も。――」
「聞《き》きてえか」
「どうか、お聞《き》かせなすっておくんなせえやし」
「浜村屋《はまむらや》は、役者《やくしゃ》を止《や》めざァならねえんだ」
「何《な》んでげすッて」
「口《くち》が裂《さ》けてもいうじゃァねえぞ。――南御町奉行《みなみおまちぶぎょう》の、信濃守様《しなののかみさま》の妹御《いもうとご》のお蓮様《れんさま》は、浜村屋《はまむらや》の日本《にほん》一の御贔屓《ごひいき》なんだ」
「ではあの、壱岐様《いきさま》からのお出戻《でもど》りの。――」
「叱《し》っ。余計《よけい》なこたァいっちゃならねえ」
「へえ」
「さ、帰《けえ》ンねえ」
「有難《ありがと》うござんす」
千|吉《きち》は、ふところの小判《こばん》を気《き》にしながら、ほっとして頭《あたま》を下《さ》げた。
襟《えり》に当《あた》る秋《あき》の陽《ひ》は狐色《きつねいろ》に輝《かがや》いていた。
七
無理《むり》やりに、手習《てなら》いッ子《こ》に筆《ふで》を握《にぎ》らせるようにして、たった二|行《ぎょう》の文《ふみ》ではあったが、いや応《おう》なしに書《か》かされた、ありがたく存《ぞん》じ候《そうろう》かしこの十一|文字《もじ》が気《き》になるままに、一|夜《や》をまんじりともしなかったおせんは、茶《ちゃ》の味《あじ》もいつものようにさわやかでなく、まだ小半時《こはんとき》も早《はや》い、明《あ》けたばかりの日差《ひざし》の中《なか》を駕籠《かご》に揺《ゆ》られながら、白壁町《しろかべちょう》の春信《はるのぶ》の許《もと》を訪《おとず》れたのであった。
弟子《でし》の藤吉《とうきち》から、おせんが来《き》たとの知《し》らせを聞《き》いた春信《はるのぶ》は、起《お》き出《で》たばかりで顔《かお》も洗《あら》っていなかったが、とりあえず画室《がしつ》へ通《とお》して、磁器《じき》の肌《はだ》のように澄《す》んだおせんの顔《かお》を、じっと見詰《みつ》めた。
「大《たい》そう早《はや》いの」
「はい。少《すこ》しばかり思《おも》い余《あま》ったことがござんして、お智恵《ちえ》を拝借《はいしゃく》に伺《うかが》いました」
「智恵《ちえ》を貸《か》せとな。はッはッは。これは面白《おもしろ》い。智恵《ちえ》はわたしよりお前《まえ》の方《ほう》が多分《たぶん》に持合《もちあわ》せているはずだがの」
「まァお師匠《ししょう》さん」
「いや、それァ冗談《じょうだん》だが、いったいどんなことが持上《もちあが》ったといいなさるんだ」
「あのう、いつもお話《はな》しいたします兄《あに》が、ゆうべひょっこり、帰《かえ》って来《き》たのでござんす」
「なに、兄《にい》さんが帰《かえ》って来《き》たと」
「はい」
「よく聞《き》くお前《まえ》の話《はなし》では、千|吉《きち》とやらいう兄《にい》さんは、まる三|年《ねん》も行方《ゆくえ》知《し》れずになっていたとか。――それがまた、どうして急《きゅう》に。――」
「面目次第《めんぼくしだい》もござんせぬが、兄《にい》さんは、お宝《たから》が欲《ほ》しいばっかりに、帰《かえ》って来《き》たのだと、自分《じぶん》の口《くち》からいってでござんす」
「金《かね》が欲《ほ》しいとの。したがまさか、お前《まえ》を分限者《ぶげんじゃ》だとは思《おも》うまいがの」
「兄《にい》さんは、あたしを囮《おとり》にして、よその若旦那《わかだんな》から、お金《かね》をお借《か》り申《もう》したのでござんす」
「ほう、何《な》んとして借《か》りた」
「いやがるあたしに文《ふみ》を書《か》かせ、その文《ふみ》を、二十五|両《りょう》に、買《か》っておもらい申《もう》すのだと、引《ひ》ッたくるようにして、どこぞへ消《き》え失《う》せましたが、そのお人《ひと》は誰《だれ》あろう、通油町《とおりあぶらちょう》の、橘屋《たちばなや》の徳太郎《とくたろう》さんという、虫《むし》ずが走《はし》るくらい、好《す》かないお方《かた》でござんす」
「そんなら千|吉《きち》さんは、橘屋《たちばなや》の徳《とく》さんから、その金《かね》を借《か》りて。――」
「はい。今頃《いまごろ》はおおかた、どこぞお大名屋敷《だいみょうやしき》のお厩《
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