訊《き》きてえことがあるから、つきあってくんねえ」
「へえ」
「びくびくするこたァありゃしねえ。こいつあこっちから頼《たの》むんだから、安心《あんしん》してついて来《き》ねえ」
 鬼《おに》七と呼ばれてはいるが、名前《なまえ》とはまったく違《ちが》った、すっきりとした男前《おとこまえ》の、結《ゆ》いたての髷《まげ》を川風《かわかぜ》に吹《ふ》かせた格好《かっこう》は、如何《いか》にも颯爽《さっそう》としていた。
 折柄《おりから》の上潮《あげしお》に、漫々《まんまん》たる秋《あき》の水《みず》をたたえた隅田川《すみだがわ》は、眼《め》のゆく限《かぎ》り、遠《とお》く筑波山《つくばやま》の麓《ふもと》まで続《つづ》くかと思《おも》われるまでに澄渡《すみわた》って、綾瀬《あやせ》から千|住《じゅ》を指《さ》して遡《さかのぼ》る真帆方帆《まほかたほ》が、黙々《もくもく》と千鳥《ちどり》のように川幅《かわはば》を縫《ぬ》っていた。
 その絵巻《えまき》を展《ひろ》げた川筋《かわすじ》の景色《けしき》を、見《み》るともなく横目《よこめ》で見《み》ながら、千|吉《きち》と鬼《おに》七は肩《かた》をならべて、静《しず》かに橋《はし》の上《うえ》を浅草御門《あさくさごもん》の方《ほう》へと歩《あゆ》みを運《はこ》んだ。
「千|吉《きち》、おめえ、おせんのところへは出《で》かけたろうの」
「どういたしやして。妹《いもうと》にゃ、三|年《ねん》この方《かた》、てんで会《あ》やァいたしません」
「ふふふ。つまらねえ隠《かく》し立《だ》ては止《や》めねえか。いまもいった通《とお》り、おいらァおめえを、洗《あら》い立《た》てるッてんじゃねえ。こっちの用《よう》で訊《き》きてえことがあるんだ。悪《わる》いようにゃしねえから、はっきり聞《き》かしてくんねえ」
「どんな御用《ごよう》で。……」
「おせんのとこへ、菊之丞《はまむらや》が毎晩《まいばん》通《かよ》うッて噂《うわさ》を聞《き》き込《こ》んだんだが、そいつをおめえは知《し》ってるだろうの」
 こう訊《き》きながら、鬼《おに》七の眼《め》は異様《いよう》に光《ひか》った。

    六

 鬼《おに》七の問《とい》は、まったく千|吉《きち》には思《おも》いがけないことであった。――子供《こども》の時分《じぶん》から好《す》きでこそあれ、嫌《きら》いではない菊之丞《きくのじょう》を、おせんがどれ程《ほど》思《おも》い詰《つ》めているかは、いわずと知《し》れているものの、今《いま》では江戸《えど》一|番《ばん》の女形《おやま》といわれている菊之丞《きくのじょう》が、自分《じぶん》からおせんの許《もと》へ、それも毎晩《まいばん》通《かよ》って来《き》ようなぞとは、どこから出《で》た噂《うわさ》であろう。岡焼半分《おかやきはんぶん》の悪刷《わるずり》にしても、あんまり話《はなし》が食《く》い違《ちが》い過《す》ぎると、千|吉《きち》は思《おも》わず鬼《おに》七の顔《かお》を見返《みかえ》した。
「何《な》んで、そんな不審《ふしん》そうな顔《かお》をするんだ」
「何《な》んでと仰《おっ》しゃいますが、あんまり親方《おやかた》のお聞《き》きなさることが、解《げ》せねえもんでござんすから。……」
「おいらの訊《き》くことが解《げ》せねえッて。――何《なに》が解《げ》せねえんだ」
「浜村屋《はまむらや》は、おせんのところへなんざ、命《いのち》を懸《か》けて頼《たの》んだって、通《かよ》っちゃくれませんや」
「おめえ、まだ隠《かく》してるな」
「どういたしやして、嘘《うそ》も隠《かく》しもありゃァしません。みんなほんまのことを申《もうし》上《あ》げて居《お》りやすんで。……」
「千|吉《きち》」
「へ」
「おめえ、二三|日前《にちまえ》に行《い》った時《とき》、おせんが誰《だれ》と話《はなし》をしてえたか、そいつをいって見《み》ねえ」
「話《はなし》でげすって」
「そうだ。おせん一人《ひとり》じゃなかったろう。たしか相手《あいて》がいたはずだ」
「お袋《ふくろ》が、隣座敷《となりざしき》にいた外《ほか》にゃ、これぞといって、人《ひと》らしい者《もの》ァいやァいたしません」
「ふふふ、お七はいなかったか」
「お七ッ」
「どうだ、お七の衣装《いしょう》を着《き》た浜村屋《はまむらや》が、ちゃァんと一人《ひとり》いたはずだ。おめえはその眼《め》で見《み》たじゃねえか」
「ありゃァ親方《おやかた》。――」
「あれもこれもありゃァしねえ。おいらはそいつを訊《き》いてるんだ」
「人形《にんぎょう》じゃござんせんか」
「とぼけちゃいけねえ。人間《にんげん》を人形《にんぎょう》と見違《みちが》える程《ほど》、鬼《おに》七ァまだ耄碌《も
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