…」
「ど、どういたしやして、鼠《ねずみ》なんぞた申《もう》しゃしません。若旦那《わかだんな》にはこれからも、鼠《ぬずみ》のように、チウ義《ぎ》をおつくし申《もう》せと、こう申《もう》したのでございます」
「お前《まえ》は口《くち》が上手《じょうず》だから。……」
「口《くち》はからきし下手《へた》の皮《かわ》、人様《ひとさま》の前《まえ》へ出《で》たら、ろくにおしゃべりも出来《でき》る男《おとこ》じゃござんせんが、若旦那《わかだんな》だけは、どうやら赤《あか》の他人《たにん》とは思《おも》われず、ついへらへらとお喋《しゃべ》りもいたしやす。――ねえ若旦那《わかだんな》。どうかおせんに、二十五|両《りょう》だけ、貸《か》してやっておくんなせえやし」
「何《なに》、二十五|両《りょう》。――」
「江戸《えど》で名代《なだい》の橘屋《たちばなや》の若旦那《わかだんな》。二十五|両《りょう》は、ほんのお小遣《こづかい》じゃござんせんか」
千|吉《きち》はそういいながら、ふところ深《ふか》くひそませた、おせんのふみを取《と》りだした。
ありがたく存《ぞん》じ候《そうろう》 かしこ
せん より
若旦那《わかだんな》さま
ふみのおもては、ただこれだけだった。
三
朝《あさ》っぱらの柳湯《やなぎゆ》は、町内《ちょうない》の若《わか》い者《もの》と、楊枝削《ようじけず》りの御家人《ごけにん》と道楽者《どうらくもの》の朝帰《あさがえ》りとが、威勢《いせい》のよしあしを取《とり》まぜて、柘榴口《ざくろぐち》の内《うち》と外《そと》とにとぐろを巻《ま》いたひと時《とき》の、辱《はじ》も外聞《がいぶん》もない、手拭《てぬぐい》一|本《ぽん》の裸絵巻《はだかえまき》を展《ひろ》げていたが、こんな場合《ばあい》、誰《だれ》の口《くち》からも同《おな》じように吐《は》かれるのは、何吉《なにきち》がどこの賭場《とば》で勝《か》ったとか、どこそこのお何《なに》が、近頃《ちかごろ》誰《だれ》にのぼせているとか、さもなければ芝居《しばい》の噂《うわさ》、吉原《よしわら》の出来事《できごと》、観音様《かんのんさま》の茶屋女《ちゃやおんな》の身《み》の上《うえ》など、おそらく口《くち》を開《ひら》けば、一|様《よう》におのれの物知《ものし》りを、少《すこ》しも速《はや》く人《ひと》に聞《き》かせたいとの自慢《じまん》からであろう。玉《たま》のような汗《あせ》を額《ひたい》にためながら、いずれもいい気持《きもち》でしゃべり続《つづ》ける面白《おもしろ》さ。中《なか》には、顔《かお》さえ洗《あら》やもう用《よう》はねえと、流《なが》しのまん中《なか》に頑張《がんば》って、四|斗樽《とだる》のような体《からだ》を、あっちへ曲《ま》げ、こっちへ伸《のば》して、隣近所《となりきんじょ》へ泡《あわ》を飛《と》ばす暇《ひま》な隠居《いんきょ》や、膏薬《こうやく》だらけの背中《せなか》を見《み》せて、弘法灸《こうぼうきゅう》の効能《こうのう》を、相手《あいて》構《かま》わず吹《ふ》き散《ちら》す半病人《はんびょうにん》もある有様《ありさま》。湯屋《ゆや》は朝《あさ》から寄合所《よりあいしょ》のように賑《にぎ》わいを見《み》せていた。
「長兄《ちょうあに》イ。聞《き》いたか」
「何《なに》を」
「何《なに》をじゃねえ、千|吉《きち》がしこたま儲《もう》けたッて話《はなし》をよ」
「うんにゃ。聞《き》かねえよ」
「迂濶《うかつ》だな」
「だっておめえ、知《し》らねえもなァ仕方《しかた》がねえや。――いってえ、あの怠《なま》け者《もの》が、どこでそんなに儲《もう》けやがったたんだ」
「どこッたっておめえ、そいつが、てえそうないかさま[#「いかさま」に傍点]なんだぜ」
「ふうん、奴《やつ》にそんな器用《きよう》なことが出来《でき》るのかい」
「相手《あいて》がいいんだ」
「椋鳥《むくどり》か」
「ちゃきちゃきの江戸《えど》っ子《こ》よ」
「はァてな、江戸《えど》っ子《こ》が、奴《やつ》のいかさま[#「いかさま」に傍点]に引《ひ》ッかかるたァおかしいじゃねえか」
「いかさま[#「いかさま」に傍点]ッたって、おめえ、丁半《ちょうはん》じゃねえぜ」
「ほう、さいころ[#「さいころ」に傍点]じゃねえのかい」
「女《おんな》が餌《えさ》だ」
「女《おんな》。――」
「相手《あいて》を釣《つ》って儲《もう》けたのよ」
「そいつァ尚更《なおさら》初耳《はつみみ》だ。――その相手《あいて》ッてな、どこの誰《だれ》よ」
「油町《あぶらちょう》の紙問屋《かみどんや》、橘屋《たちばなや》の若旦那《わかだんな》だ」
「ほう、そいつァおもしれえ」
「あれだ。おもしれえ
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