か》いたな始《はじ》めての、いわば初恋《はつこい》とでも申《もう》しやしょうか。はずかしい上《うえ》にもはずかしいのが人情《にんじょう》でげしょう。道《みち》ッ端《ぱた》で展《ひろ》げたとこを、ひょっと誰《だれ》かに見《み》られた日《ひ》にゃァ、それこそ若旦那《わかだんな》、気《き》の弱《よわ》いおせんは、どんなことになるか、知《し》れたもんじゃござんせん。野暮《やぼ》は承知《しょうち》の上《うえ》でござんす。どうか、ここンところをお察《さっ》しなすって……」
谷中《やなか》から上野《うえの》へ抜《ぬ》ける、寛永寺《かんえいじ》の土塀《どべい》に沿《そ》った一|筋道《すじみち》、光琳《こうりん》の絵《え》のような桜《さくら》の若葉《わかば》が、道《みち》に敷《し》かれたまん中《なか》に佇《たたず》んだ、若旦那《わかだんな》徳太郎《とくたろう》とおせんの兄《あに》の千|吉《きち》とは、折《おり》からの夕陽《ゆうひ》を浴《あ》びて、色《いろ》よい返事《へんじ》を認《したた》めたおせんの文《ふみ》を、見《み》せろ見《み》せないのいさかいに、しばし心《こころ》を乱《みだ》していたが、この上《うえ》の争《あらそ》いは無駄《むだ》と察《さっ》したのであろう。やがて徳太郎《とくたろう》は細《ほそ》い首《くび》をすくめた。
「あたしゃ気《き》が短《みじか》いから、どこへ行《ゆ》くにしても、とても歩《ある》いちゃ行《い》かれない。千|吉《きち》つぁん、直《す》ぐに駕籠《かご》を呼《よ》んでもらおうじゃないか」
「合点《がってん》でげす」
千|吉《きち》は二《ふた》つ返事《へんじ》で頷《うなず》いた。
二
徳太郎《とくたろう》と千|吉《きち》とが、不忍池畔《しのばずちはん》の春草亭《しゅんそうてい》に駕籠《かご》を停《と》めたのは、それから間《ま》もない後《あと》だった。
徳太郎《とくたろう》は女中《じょちゅう》の案内《あんない》も待《ま》たず、駆《か》け込《こ》むように千|吉《きち》の手《て》をとって、奥《おく》の座敷《ざしき》へ連《つ》れ込《こ》んだ。
「さ、千|吉《きち》さん」
「へえ」
「早《はや》くお見《み》せ」
「何《なに》をでござんす」
「おや、何《なに》をはあるまい。おせんのふみじゃないか」
「おそうだ。これはすっかり忘《わす》れて居《お》りやした」
「お前《まえ》は道端《みちばた》じゃ見《み》せられないというから、わざわざ駕籠《かご》を急《いそ》がせて、ここまで来《き》たんだよ。さ大事《だいじ》な文《ふみ》を、少《すこ》しでも速《はや》く見《み》せてもらいましょう」
「お見《み》せいたしやす」
「口《くち》ばっかりでなく、速《はや》くお出《だ》しッたら」
「出《だ》しやす。――が、ちょいとお待《ま》ちなすっておくんなさい。その前《まえ》に、あっしゃァ若旦那《わかだんな》に、ひとつお願《ねが》い申《もう》してえことがござんすので。……」
「何《な》んだえ、あらたまって。――」
「実《じつ》ァその、おせんの奴《やつ》から。……」
「なに、おせんから、あたしに頼《たの》みとの」
「へえ」
「そんならなぜ、もっと早《はや》くいわないのさ」
「申上《もうしあ》げたいのは山々《やまやま》でござんすが、ちと厚《あつ》かましい筋《すじ》だもんでげすから、ついその、あっしの口《くち》からも、申上《もうしあ》げにくかったような訳《わけ》でげして」
「馬鹿《ばか》な。つまらない遠慮《えんりょ》なんか、水臭《みずくさ》いじゃないか。そんな遠慮《えんりょ》はいらないから、いっとくれ。あたしでかなうことなら、どんな願《ねが》いでも、きっと聞《き》いてあげようから。……」
「そりゃどうも。おせんに聞《き》かしてやりましたら、どれ程《ほど》喜《よろこ》ぶか知《し》れやァしません。――ところで若旦那《わかだんな》」
「なにさ」
「そのお願《ねが》いと申《もう》しますのは」
「その頼《たの》みとは」
「お金《かね》を。――」
「何《な》んのことかと思《おも》ったら、お金《かね》かい。憚《はばか》りながら、あたしァ江戸《えど》でも人様《ひとさま》に知《し》られた、橘屋《たちばなや》の徳太郎《とくたろう》、おせんの頼《たの》みとあれば、決《けっ》していやとはいわないから、かまわずにいって御覧《ごらん》。たとえどれ程《ほど》の大金《たいきん》でも、あれのためなら、首《くび》は横《よこ》にゃ振《ふ》らないつもりだよ」
「へえへえ、どうも恐《おそれ》れいりやした。いやもう、おせん、おめえよく捕《と》ったぞ。これ程《ほど》の鼠《ねずみ》たァ、まさか思《おも》っちゃ。……」
「これ千|吉《きち》つぁん、何《なに》をおいいだ。あたしのことを鼠《ねずみ》とは。…
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