《ふ》りゃァ、おいらは人《ひと》から預《あず》かった、大事《だいじ》な金《かね》を落《お》としたかどで、いやでも明日《あした》は棒縛《ぼうしば》りだ。――そいつもよかろう。おめえはかげで笑《わら》っていねえ」
「兄《あに》さん」
「もう何《な》んにも頼《たの》まねえ。これから帰《けえ》って縛《しば》られようよ」
千|吉《きち》は、わざとやけに立上《たちあが》って窓辺《まどべ》へつかつかと歩《あゆ》み寄《よ》った。
突然《とつぜん》隣座敷《となりざしき》から、お岸《きし》のすすり泣《な》く声《こえ》が、障子越《しょうじご》しに聞《きこ》えて来《き》た。
文《ふみ》
一
「若旦那《わかだんな》、もし、油町《あぶらちょう》の若旦那《わかだんな》」
「おお、お前《まえ》は千|吉《きち》つぁん」
「そんなに急《いそ》いで、どこへおいでなせえやす」
「お前《まえ》のとこさ」
「何、あっしンとこでげすッて。――あっしンとこなんざ、若旦那《わかだんな》においでを願《ねが》うような、そんな気《き》の利《き》いた住居《すまい》じゃござんせん。火口箱《ほくちばこ》みてえな、ちっぽけな棟割長屋《むねわりながや》なんで。……」
「小《ちい》さかろうが、大《おお》きかろうが、そんなことは考《かんが》えちゃいられないよ」
「何《な》んと仰《おっ》しゃいます」
「あたしゃお前《まえ》に頼《たの》んだ返事《へんじ》を、聞《き》かせてもらいに、往《ゆ》くところじゃないか」
「はッはッは。それでわざわざお運《はこ》び下《くだ》さろうッてんでげすか。これぁどうも恐《おそ》れいりやした。そのことなら、どうかもう御心配《ごしんぱい》は、御無用《ごむよう》になすっておくんなさいまし」
「おお、そんなら千|吉《きち》さん、おせんの返事《へんじ》を。――」
「憚《はばか》りながら、いったんお引《ひき》受《う》け申《もう》しやした正直《しょうじき》千|吉《きち》、お約束《やくそく》を違《たが》えるようなこたァいたしやせん」
「済《す》まない。あたしはそうとは思《おも》っていたものの、これがやっぱり恋心《こいごころ》か。ちっとも速《はや》く返事《へんじ》が聞《き》き度《た》くて、帳場格子《ちょうばこうし》と二|階《かい》の間《あいだ》を、九十九|度《ど》も通《かよ》った挙句《あげく》、とうとう辛抱《しんぼう》が出来《でき》なくなったばっかりに、ここまで出向《でむ》いて来《き》た始末《しまつ》さ。そうと極《きま》ったら、どうか直《す》ぐに色《いろ》よい返事《へんじ》を聞《き》かせておくれ」
「ま、ま、待《ま》っておくんなせえやし。そんなにお急《せき》ンならねえでも、おせんの返事《へんじ》は、直《す》ぐさまお聞《き》かせ申《もう》しやすが、ここは道端《みちばた》、誰《だれ》に見《み》られねえとも限《かぎ》りやせん。筋《すじ》の通《とお》ったいい所《ところ》で、ゆっくりお目《め》にかけようじゃござんせんか」
「そりゃもう、いずれおまんま[#「おまんま」に傍点]でも食《た》べながら、ゆっくり見《み》せてもらおうが、まず文《ふみ》の上書《うわがき》だけでも、ここでちょいと、のぞかせておくれでないか」
「御安心《ごあんしん》くださいまし。上書《うわがき》なんざ二の次《つぎ》三の次《つぎ》、中味《なかみ》から封《ふう》じ目《め》まで、おせんの手《て》に相違《そうい》はございません。あいつァ七八つの時分《じぶん》から、手習《てならい》ッ子《こ》の仲間《なかま》でも、一といって二と下《さが》ったことのねえ手筋自慢《てすじじまん》。あっしゃァ質屋《しちや》の質《しち》の字《じ》と、万金丹《まんきんたん》の丹《たん》の字《じ》だけしきゃ書《か》けやせんが、おせんは若旦那《わかだんな》のお名前《なまえ》まで、ちゃァんと四|角《かく》い字《じ》で書《か》けようという、水茶屋女《みずぢゃやおんな》にゃ惜《お》しいくらいの立派《りっぱ》な手書《てが》き。――この通《とお》り、あっしがふところに預《あず》かっておりやすから、どうか親船《おやぶね》に乗《の》った気《き》で、おいでなすっておくんなせえやし」
「安心《あんしん》はしているけれど、ちっとも速《はや》く見《み》たいのが人情《にんじょう》じゃないか。野暮《やぼ》をいわずに、ちょいとでいいから、ここでお見《み》せよ」
「堪忍《かんにん》しておくんなさい。道《みち》ッ端《ぱた》ではお目《め》にかけねえようにと、こいつァ妹《いもうと》からの、堅《かた》い頼《たの》みでござんすので。……」
「はてまァ、何《な》んという野暮《やぼ》だろうのう」
「どうか察《さっ》しておやンなすって。おせんにして見《み》りゃ、自分《じぶん》から文《ふみ》を書《
前へ
次へ
全66ページ中50ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
邦枝 完二 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング