か」
「まァ兄《にい》さん」
「恥《はず》かしがるにゃァ当《あた》らねえ。何《なに》もこっちから、血道《ちみち》を上《あ》げてるという訳《わけ》じゃなし、おめえに惚《ほ》れてるな、向《むこ》う様《さま》の勝手次第《かってしだい》だ。――おせん。そこでおめえに相談《そうだん》だが、ひとつこっちでも、気《き》のある風《ふう》をしちゃあくれめえか」
「えッ」
「おめえも十八だというじゃァねえか。もうてえげえ、そのくれえの芸当《げいとう》は、出来《でき》ても辱《はじ》にゃァなるめえぜ」
 千|吉《きち》は、たじろぐおせんを見詰《みつ》めながら、四|角《かく》く坐《すわ》って詰《つ》め寄《よ》った。

    七

「もし、兄《あに》さん」
 月《つき》は雲《くも》に覆《おお》われたのであろう。障子《しょうじ》を漏《も》れる光《ひかり》さえない部屋《へや》の中《なか》は、僅《わず》かに隣《となり》から差《さ》す行燈《あんどん》の方影《かたかげ》に、二人《ふたり》の半身《はんしん》を淡《あわ》く見《み》せているばかり、三|年《ねん》振《ぶ》りで向《む》き合《あ》った兄《あに》の顔《かお》も、おせんははっきり見極《みきわ》めることが出来《でき》なかった。
 その方暗《かたやみ》の中《なか》に、おせんの声《こえ》は低くふるえた。
「兄《あに》さん」
「え」
「帰《かえ》っておくんなさい」
「何《な》んだって。おいらに帰《けえ》れッて」
「あい」
「冗談《じょうだん》じゃねえ。用《よう》がありゃこそ、わざわざやって来《き》たんだ。なんでこのまま帰《けえ》れるものか。そんなことよりおいらの頼《たの》みを、素直《すなお》にきいてもらおうじゃねえか。おめえさえ首《くび》を縦《たて》に振《ふ》ってくれりゃァ、からきし訳《わけ》はねえことなんだ。のうおせん。赤《あか》の他人《たにん》でさえ、事《こと》を分《わ》けて、かくかくの次第《しだい》と頼《たの》まれりゃ、いやとばかりゃァいえなかろう。おいらァおめえの兄貴《あにき》だよ。――血《ち》を分《わ》けた、たった一人《ひとり》の兄貴《あにき》だよ。それも、百とまとまった金《かね》が入用《いりよう》だという訳《わけ》じゃねえ。四|半分《はんぶん》の二十五|両《りょう》で事《こと》が済《す》むんだ」
「二十五|両《りょう》。――」
「みっともねえ。驚《おどろ》く程《ほど》の高《たか》でもあるめえ」
「でも、そんなお金《かね》は。……」
「だからよ。初手《しょて》からいってる通《とお》り、おめえやお袋《ふくろ》の臍《へそ》くりから、引《ひ》っ張《ぱ》り出《だ》そうたァいやァしねえや。狙《ねら》いをつけたなあの若旦那《わかだんな》、橘屋《たちばなや》の徳太郎《とくたろう》というでくの棒《ぼう》よ。ふふふふ。何《な》んの雑作《ぞうさ》もありァしねえ。おめえがここでたった一言《ひとこと》。おなつかしゅうござんす、とかなんとかいってくれさえすりァ、おいらの頼《たの》みァ聴《き》いてもらえようッてんだ。お釈迦《しゃか》が甘茶《あまちゃ》で眼病《めやみ》を直《なお》すより、もっとわけねえ仕事《しごと》じゃねえか」
「それでもあたしゃ。心《こころ》にもないことをいって。……」
「そ、その料簡《りょうけん》がいけねえんだ。腹《はら》にあろうがなかろうが、武士《ぶし》は戦略《せんりゃく》、坊主《ぼうず》は方便《ほうべん》、時《とき》と場合《ばあい》じゃ、人《ひと》の寝首《ねくび》をかくことさえあろうじゃねえか。――さ、ここに筆《ふで》と紙《かみ》がある。いろはのいの字《じ》とろの字《じ》を書《か》いて、いろよい返事《へんじ》をしてやんねえ」
 千|吉《きち》がふところから取出《とりだ》したのは、巻紙《まきがみ》と矢立《やたて》であった。
 おせんは、あわてて手《て》を引《ひ》ッ込《こ》めた。
「堪忍《かんにん》しておくんなさい」
「何《なに》もあやまるこたァありゃァしねえ。暗《くら》くッて書《か》けねえというンなら、仕方《しかた》がねえ。行燈《あんどん》をつけてやる」
「もし。――」
 今度《こんど》はおせんが、千|吉《きち》の手《て》をおさえた。
「何《なに》をするんだ」
「あたしゃ、どうでもいやでござんす」
「そんならこれ程《ほど》までに、頭《あたま》をさげて頼《たの》んでもか」
「外《ほか》のこととは訳《わけ》が違《ちが》い、あたしゃ数《かず》あるお客《きゃく》のうちでも、いの一|番《ばん》に嫌《きら》いなお人《ひと》、たとえ嘘《うそ》でも冗談《じょうだん》でも、気《き》の済《す》まないことはいやでござんす」
「おせん。おめえ、兄貴《あにき》を見殺《みごろ》しにするつもりか」
「何《な》んとえ」
「おめえがいやだとかぶりを振
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