一人《ひとり》でいると、鼠《ねずみ》に引《ひ》かれるよ」
 隣座敷《となりざしき》では、母《はは》が燈芯《とうしん》をかき立《た》てたのであろう。障子《しょうじ》が急《きゅう》に明《あか》るくなって、膳立《ぜんだて》をする音《おと》が耳《みみ》に近《ちか》かった。
 よろめくように立上《たちあが》ったおせんは、窓《まど》の障子《しょうじ》に手《て》をかけた。と、その刹那《せつな》、低《ひく》いしかも聞《き》き慣《な》れない声《こえ》が、窓《まど》の下《した》から浮《う》き上《あが》った。
「おせん」
「えッ」
「驚《おどろ》くにゃ当《あた》らねえ。おいらだよ」
 おせんは、火箸《ひばし》のように立《た》ちすくんでしまった。

    六

「ど、どなたでござんす」
「叱《し》っ、静《しず》かにしねえ。怪《あや》しいものじゃねえよ。おいらだよ」
「あッ、お前《まえ》は兄《あに》さん。――」
「ええもう、静《しず》かにしろというのに。お袋《ふくろ》の耳《みみ》へへえッたら、事《こと》が面倒《めんどう》ンなる」
 そういいながら、出窓《でまど》の縁《えん》へ肘《ひじ》を懸《か》けて、するりと体《からだ》を持《もち》ちあげると、如何《いか》にも器用《きよう》に履《は》いた草履《ぞうり》を右手《みぎて》で脱《ぬ》ぎながら、腰《こし》の三|尺帯《じゃくおび》へはさんで、猫《ねこ》のように青畳《あおだたみ》の上《うえ》へ降《お》り立《た》ったのは、三|年前《ねんまえ》に家《いえ》を出《で》たまま、噂《うわさ》にさえ居所《いどころ》を知《し》らせなかった兄《あに》の千|吉《きち》だった。――藍微塵《あいみじん》の素袷《すあわせ》に算盤玉《そろばんだま》の三|尺《じゃく》は、見《み》るから堅気《かたぎ》の着付《きつけ》ではなく、殊《こと》に取《と》った頬冠《ほおかむ》りの手拭《てぬぐい》を、鷲掴《わしづか》みにしたかたちには、憎《にく》いまでの落着《おちつき》があった。
 まったく夢想《むそう》もしなかった出来事《できごと》に、おせんは、その場《ば》に腰《こし》を据《す》えたまま、直《す》ぐには二の句《く》が次《つ》げなかった。
「おせん。おめえ、いくつンなった」

「十八でござんす」
「十八か。――」
 千|吉《きち》はそういって苦笑《くしょう》するように頷《うなず》いたが、隣座敷《となりざしき》を気にしながら、更《さら》に声《こえ》を低《ひく》めた。
「怖《こわ》がるこたァねえから、後《あと》ずさりをしねえで、落着《おちつ》いていてくんねえ。おいらァ何《なに》も、久《ひさ》し振《ぶ》りに会《あ》った妹《いもうと》を、取《と》って食《く》おうたァいやァしねえ」
「あかりを、つけさせておくんなさい」
「おっと、そんな事をされちゃァたまらねえ。暗《やみ》でもてえげえ見《み》えるだろうが、おいらァ堅気《かたぎ》の商人《しょうにん》で、四|角《かく》い帯《おび》を、うしろで結《むす》んで来《き》た訳《わけ》じゃねえんだ。面目《めんぼく》ねえが五一三分六《ごいちさぶろく》のやくざ者《もの》だ。おめえやお袋《ふくろ》に、会《あ》わせる顔《かお》はねえンだが、ちっとばかり、人《ひと》に頼《たの》まれたことがあって、義理《ぎり》に挟《はさ》まれてやって来《き》たのよ。おせん、済《す》まねえが、おいらの頼《たの》みを聞《き》いてくんねえ」
「そりゃまた兄《あに》さん、どのようなことでござんす」
「どうのこうのと、話《はな》せば長《なげ》え訳合《わけあい》だが、手《て》ッ取早《とりばや》くいやァ、おいらァ金《かね》が入用《いりよう》なんだ」
「お金《かね》とえ」
「そうだ」
「あたしゃ、お金《かね》なんぞ。……」
「まァ待《ま》った。藪《やぶ》から棒《ぼう》に飛《と》び込《こ》んで来《き》た、おいらの口《くち》からこういったんじゃ、おめえがかぶりを振《ふ》るのももっともだが、こっちもまんざら目算《もくさん》なしで、出《で》かけて来《き》たという訳《わけ》じゃねえ。そこにゃちっとばかり、見《み》かけた蔓《つる》があってのことよ。――のうおせん。おめえは通油町《とおりあぶらちょう》の、橘屋《たちばなや》の若旦那《わかだんな》を知《し》ってるだろう」
「なんとえ」
「徳太郎《とくたろう》という、始末《しまつ》の良《よ》くねえ若旦那《わかだんな》だ」
「さァ、知《し》ってるような、知《し》らないような。……」
「ここァ別《べつ》に白洲《しらす》じゃねえから、隠《かく》しだてにゃ及《およ》ばねえぜ。知《し》らねえといったところが、どうでそれじゃァ通《とお》らねえんだ。先《さき》ァおめえに、家蔵《いえくら》売《う》ってもいとわぬ程《ほど》の、首《くび》ッたけだというじゃねえ
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