り》に気《き》を配《くば》りながら、胸《むね》一|杯《ぱい》に抱《かか》え出《だ》したのは、つい三日前《みっかまえ》の夜《よる》、由斎《ゆうさい》の許《もと》から駕籠《かご》に乗《の》せて届《とど》けてよこした、八百|屋《や》お七の舞台姿《ぶたいすがた》をそのままの、瀬川菊之丞《せがわきくのじょう》の生人形《いきにんぎょう》であった。
おせんは抱《かか》えた人形《にんぎょう》を、東《ひがし》に向《む》けて座敷《ざしき》のまん中《なか》に立《た》てると、薄月《うすづき》の光《ひかり》を、まともに受《う》けさせようがためであろう。音《おと》せぬ程《ほど》に、窓《まど》の障子《しょうじ》を徐《しずか》に開《あ》け始《はじ》めた。
庭《にわ》には虫《むし》の声《こえ》もなく、遠《とお》くの空《そら》を渡《わた》る雁《かり》のおとずれがうつろのように、耳《みみ》に響《ひび》いた。
「吉《きち》ちゃん。――いいえ、太夫《たゆう》、あたしゃ会《あ》いとうござんした」
生《い》きた相手《あいて》にいう如《ごと》く、如何《いか》にもなつかしそうに、人形《にんぎょう》を仰《あお》いだおせんの眼《め》には、情《なさけ》の露《つゆ》さえ仇《あだ》に宿《やど》って、思《おも》いなしか、声《こえ》は一|途《ず》にふるえていた。
「――朝《あさ》から晩《ばん》まで、いいえ、それよりも、一|生涯《しょうがい》、あたしゃ太夫《たゆう》と一|緒《しょ》にいとうござんすが、なんといっても、お前《まえ》は今《いま》を時《とき》めく、江戸《えど》一|番《ばん》の女形《おやま》。それに引《ひ》き換《か》えあたしゃそこらに履《は》き捨《す》てた、切《き》れた草鞋《わらじ》もおんなじような、水茶屋《みずぢゃや》の茶汲《ちゃく》み娘《むすめ》。百夜《ももよ》の路《みち》を通《かよ》ったとて、お前《まえ》に逢《あ》って、昔話《むかしばなし》もかなうまい。それゆえせめての心《こころ》から、あたしがいつも夢《ゆめ》に見《み》るお前《まえ》のお七を、由斎《ゆうさい》さんに仕上《しあ》げてもらって、ここまで内緒《ないしょ》で運《はこ》んだ始末《しまつ》。お前《まえ》のお宅《たく》にくらべたら、物置小屋《ものおきごや》にも足《た》りない住居《すまい》でござんすが、ここばっかりは、邪間《じゃま》する者《もの》もない二人《ふたり》の世界《せかい》。どうぞ辛抱《しんぼう》して、話相手《はなしあいて》になっておくんなさいまし、――あたしゃ、王子《おうじ》で育《そだ》った十|年前《ねんまえ》も、お見世《みせ》へ通《かよ》うきょうこの頃《ごろ》も、心《こころ》に毛筋程《けすじほど》の変《かわ》りはござんせぬ。吉《きち》ちゃんと、おせんちゃんとは夫婦《ふうふ》だと、ままごと遊《あそ》びにからかわれた、あの春《はる》の日《ひ》が忘《わす》れられず、枕《まくら》を濡《ぬ》らして泣《な》き明《あ》かした夜《よる》も、一|度《ど》や二|度《ど》ではござんせんし。おせんも年頃《としごろ》、好《す》きなお客《きゃく》の一人《ひとり》くらいはあろうかと、折節《おりふし》のお母《っか》さんの心配《しんぱい》も、あたしの耳《みみ》には上《うわ》の空《そら》。火《ひ》あぶりで死《し》んだお七が羨《うらや》ましいと、あたしゃいつも、思《おもい》い続《つづ》けてまいりました。――太夫《たゆう》、お前《まえ》は、立派《りっぱ》なお上《かみ》さんのその外《ほか》に、二つも寮《りょう》をお持《も》ちの様子《ようす》。引《ひ》くてあまたの、御贔屓筋《ごひいきすじ》もござんしょうが、あたしゃこのままこがれ死《し》んでも、やっぱりお前《まえ》の女房《にょうぼう》でござんす」
思《おも》わず知《し》らず、我《わ》れとわが袖《そで》を濡《ぬ》らした不覚《ふかく》の涙《なみだ》に、おせんは「はッ」として首《くび》を上《あ》げたが、どうやら勝手許《かってもと》の母《はは》の耳《みみ》へは這入《はい》らなかったものか、まだ抜《ぬ》け切《き》らぬ風邪《かぜ》の咳《せき》が二つ三つ、続《つづ》けざまに聞《き》こえたばかりであった。
しばしおせんは、俯向《うつむ》いたまま眼《め》を閉《と》じていた。その眼《め》の底《そこ》を、稲妻《いなづま》のように、幼《おさな》い日《ひ》の思《おも》い出《で》が突《つ》ッ走《ぱし》った。
「おせんや」
母《はは》の声《こえ》が聞《き》かれた。
「あい」
「この暗《くら》いのに、行燈《あんどん》もつけずに」
「あい。さして暗《くら》くはござんせぬ」
「何《なに》をしておいでだか知《し》らないが、支度《したく》が出来《でき》たから御飯《ごはん》にしようわな」
「あい、いまじきに」
「暗《くら》い所《ところ》に
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