い見世《みせ》から帰《かえ》りのおせんであった。
「違《ちげ》えねえ。たしかにおせんだ」
「そら行《い》け」
 駆《か》け出《だ》す途端《とたん》に鼻緒《はなお》が切《き》れて、草履《ぞうり》をさげたまま駆《か》け出《だ》す小僧《こぞう》や、石《いし》に躓《つまず》いてもんどり打《う》って倒《たお》れる職人《しょくにん》。さては近所《きんじょ》の生臭坊主《なまぐさぼうず》が、俗人《ぞくじん》そこのけに目尻《めじり》をさげて追《お》いすがるていたらく。所詮《しょせん》は男《おとこ》も女《おんな》もなく、おせんに取《と》っては迷惑千万《めいわくせんばん》に違《ちが》いなかろうが、遠慮会釈《えんりょえしゃく》はからりと棄《す》てた厚《あつ》かましさからつるんだ犬《いぬ》を見《み》に行《ゆ》くよりも、一|層《そう》勢《きお》い立《た》って、どっとばかりに押《お》し寄《よ》せた。
「いやだよ直《なお》さん、そんなに押《お》しちゃァ転《ころ》ンじまうよ」
「人《ひと》の転《ころ》ぶことなんぞ、遠慮《えんりょ》してたまるもんかい。速《はや》く行《い》って触《さわ》らねえことにゃ、おせんちゃんは帰《かえ》ッちまわァ」
「おッと退《ど》いた退《ど》いた。番太郎《ばんたろう》なんぞの見《み》るもンじゃねえ」
「馬鹿《ばか》にしなさんな。番太郎《ばんたろう》でも男《おとこ》一|匹《ぴき》だ。綺麗《きれい》な姐《ねえ》さんは見《み》てえや」
「さァ退《ど》いた、退《ど》いた」
「火事《かじ》だ火事《かじ》だ」
 人《ひと》の心《こころ》が心《こころ》に乗《の》って、愈《いよいよ》調子《ちょうし》づいたのであろう。茶代《ちゃだい》いらずのその上《うえ》にどさくさまぎれの有難《ありがた》さは、たとえ指先《ゆびさき》へでも触《さわ》れば触《さわ》り得《どく》と考《かんが》えての悪戯《いたずら》か。ここぞとばかり、息《いき》せき切《き》って駆《か》け着《つ》けた群衆《ぐんしゅう》を苦笑《くしょう》のうちに見守《みまも》っていたのは、飴売《あめうり》の土平《どへい》だった。
「ふふふふ。飴《あめ》も買《か》わずに、おせん坊《ぼう》へ突《つ》ッ走《ぱし》ったな豪勢《ごうせい》だ。こんな鉄錆《てつさび》のような顔《かお》をしたおいらより、油壺《あぶらつぼ》から出《で》たよなおせん坊《ぼう》の方《ほう》が、どれだけいいか知《し》れねえからの。いやもう、浮世《うきよ》のことは、何《なに》をおいても女《おんな》が大事《だいじ》。おいらも今度《こんど》の世《よ》にゃァ、犬《いぬ》になっても女《おんな》に生《うま》れて来《く》ることだ。――はッくしょい。これァいけねえ。みんなが急《きゅう》に散《ち》ったせいか、水《みず》ッ洟《ぱな》が出《で》て来《き》たぜ。風邪《かぜ》でも引《ひ》いちゃァたまらねから、そろそろ帰《かえ》るとしべえかの」
「おッと、飴屋《あめや》さん」
「はいはい、お前《まえ》さんは、何《な》んであっちへ行《い》きなさらない」
「行《い》きたくねえからよ」
「行《い》きたくないとの」
「そうだ。おいらはこれでも、辱《はじ》を知《し》ってるからの」
「面白《おもしろ》い。人間《にんげん》、辱《はじ》を知《し》ってるたァ何《なに》よりだ」
「何《なに》より小《こ》より[#「より」に傍点]御存《ごぞん》じよりか。なまじ辱《はじ》を知《し》ってるばかりに、おいらァ出世《しゅっせ》が出来《でき》ねえんだよ」
「お前《まえ》さんは、何《なに》をしなさる御家業《おかぎょう》だの」
「絵《え》かきだよ」
「名前《なまえ》は」
「名前《なまえ》なんざあるもんか」
「誰《だれ》のお弟子《でし》だの」
「おいらはおいらの弟子《でし》よ。絵《え》かきに師匠《ししょう》や先生《せんせい》なんざ、足手《あしで》まといになるばッかりで、物《もの》の役《やく》にゃ立《た》たねえわな」
 そういいながら、鼻《はな》の頭《あたま》を擦《こす》ったのは、変《かわ》り者《もの》の春重《はるしげ》だった。

    三

「おッとッとッと、おせんちゃん。何《な》んでそんなに急《いそ》ぎなさるんだ。みんながこれ程《ほど》騒《さわ》いでるんだぜ。靨《えくぼ》の一つも見《み》せてッてくんねえな」
「そうだそうだ。どんなに待《ま》ったか知《し》れやァしねえよ。おめえに急《いそ》いで帰《かえ》られたんじゃ、待《ま》ってたかいがありゃァしねえ」
 それと知《し》って、おせんを途中《とちゅう》に押《お》ッ取《と》りかこんだ多勢《おおぜい》は、飴屋《あめや》の土平《どへい》があっ気《け》に取《と》られていることなんぞ、疾《と》うの昔《むかし》に忘《わす》れたように、我《わ》れ先《さき》にと、夕《ゆう》ぐれ時《どき》
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