のあたりの暗《くら》さを幸《さいわ》いにして、鼻《はな》から先《さき》へ突出《つきだ》していた。
が、いつもなら、人《ひと》にいわれるまでもなく、まずこっちから愛嬌《あいきょう》を見《み》せるにきまっていたおせんが、きょうは何《な》んとしたのであろう。靨《えくぼ》を見《み》せないのはまだしも、まるで別人《べつじん》のようにせかせかと、先《さき》を急《いそ》いでの素気《すげ》ない素振《そぶり》に、一|同《どう》も流石《さすが》におせんの前《まえ》へ、大手《おおで》をひろげる勇気《ゆうき》もないらしく、ただ口《くち》だけを達者《たっしゃ》に動《うご》かして、少《すこ》しでも余計《よけい》に引止《ひきと》めようと、あせるばかりであった。
「もし、そこを退《ど》いておくんなさいな」
「どいたらおめえが帰《かえ》ッちまうだろう。まァいいから、ここで遊《あそ》んで行《ゆ》きねえ」
「あたしゃ、先《さき》を急《いそ》ぎます。きょうは堪忍《かんにん》しておくんなさいよ」
「先《さき》ッたって、これから先《さき》ァ、家《うち》へ帰《かえ》るより道《みち》はあるめえ。それともどこぞへ、好《す》きな人《ひと》でも出来《でき》たのかい」
「なんでそんなことが。……」
「ねえンなら、よかろうじゃねえか」
「でもお母《っか》さんが。――」
「お袋《ふくろ》の顔《かお》なんざ、生《うま》れた時《とき》から見《み》てるんだろう。もう大概《たいがい》、見《み》あきてもよさそうなもんだぜ」
「そうだ、おせんちゃん。帰《けえ》る時《とき》にゃ、みんなで送《おく》ってッてやろうから、きょう一《いち》ン日《ち》の見世《みせ》の話《はなし》でも、聞《き》かしてくんねえよ」
「お見世《みせ》のことなんぞ、何《な》んにも話《はなし》はござんせぬ。――どうか通《とお》しておくんなさい」
「紙屋《かみや》の若旦那《わかだんな》の話《はなし》でも、名主《なぬし》さんのじゃんこ[#「じゃんこ」に傍点]息子《むすこ》の話《はなし》でも、いくらもあろうというもんじゃねえか」
「知《し》りませんよ。お母《っか》さんが風邪《かぜ》を引《ひ》いて、独《ひと》りで寝《ね》ててござんすから、ちっとも速《はや》く帰《かえ》らないと、あたしゃ心配《しんぱい》でなりませんのさ」
「お袋《ふくろ》さんが風邪《かぜ》だッて」
「あい」
「そいつァいけねえ。何《な》んなら見舞《みまい》に行《い》ってやるよ」
「おいらも行《い》くぜ」
「わたしも行《い》く」
「いいえ、もうそんなことは。――」
少《すこ》しも長《なが》く、おせんを引《ひ》き止《と》めておきたい人情《にんじょう》が、互《たがい》の口《くち》を益々《ますます》軽《かる》くして、まるく囲《かこ》んだ人垣《ひとがき》は、容易《ようい》に解《と》けそうにもなかった。
すると突然《とつぜん》、はッはッはと、腹《はら》の底《そこ》から絞《しぼ》り出《だ》したような笑《わら》い声《ごえ》が、一|同《どう》の耳許《みみもと》に湧《わ》き立《た》った、
「はッはッは。みんな、みっともねえ真似《まね》をしねえで、速《はや》くおせんちゃんを、帰《かえ》してやったらどんなもんだ」
「おめえは、春重《はるしげ》だな」
「つまらねえ差《さ》し出口《でぐち》はきかねえで、引《ひ》ッ込《こ》んだ、引《ひ》ッ込《こ》んだ」
「ふふふ。おめえ達《たち》、あんまり気《き》が利《き》かな過《す》ぎるぜ。おせんちゃんにゃ、おせんちゃんの用《よう》があるんだ。野暮《やぼ》な止《と》めだてするよりも、一|刻《こく》も速《はや》く帰《かえ》してやんねえ」
「馬鹿《ばか》ァいわッし。そんなお接介《せっかい》は受けねえよ」
一|同《どう》の視線《しせん》が、春重《はるしげ》の上《うえ》に集《あつ》まっている暇《ひま》に、おせんは早《はや》くも月《つき》の下影《したかげ》に身《み》を隠《かく》した。
四
「お母《っか》さん」
「おや、おせんかえ」
「あい」
猫《ねこ》に追《お》われた鼠《ねずみ》のように、慌《あわただ》しく駆《か》け込《こ》んで来《き》たおせんの声《こえ》に、折《おり》から夕餉《ゆうげ》の支度《したく》を急《いそ》いでいた母《はは》のお岸《きし》は、何《なに》やら胸《むね》に凶事《きょうじ》を浮《うか》べて、勝手《かって》の障子《しょうじ》をがらりと明《あ》けた。
「どうかおしかえ」
「いいえ」
「でもお前《まえ》、そんなに息《いき》せき切《き》ってさ」
「どうもしやァしませんけれど、いまそこで、筆屋《ふでや》さんの黒《くろ》がじゃれたもんだから。……」
「ほほほほ。黒《くろ》が尾《お》を振《ふ》ってじゃれるのは、お前《まえ》を慕《した》っているからだよ。あた
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