ちらへお通《とお》り下《くだ》さりませ」
「しかし、わたしが上《あが》っても、いいのか」
「何《なに》を仰《おっ》しゃいます。狭苦《せまくる》しゅうはござりますが、御辛抱《ごしんぼう》しやはりまして。……」
「では遠慮《えんりょ》なしに、通《とお》してもらいましょうか。……のう太夫《たゆう》」
座敷へ上《あが》って、膝《ひざ》を折《お》ると同時《どうじ》に、春信《はるのぶ》の眼《め》は険《けわ》しく松江《しょうこう》を見詰《みつ》めた。
「今更《いまさら》あらためて、こんなことを訊《き》くのも野暮《やぼ》の沙汰《さた》だが、おこのさんといいなさるのは、確《たしか》にお前《まえ》さんの御内儀《ごないぎ》だろうのう」
「何《な》んといやはります」
松江《しょうこう》のおもてには、不安《ふあん》の色《いろ》が濃《こ》い影《かげ》を描《えが》いた。
「深《ふか》いことはどうでもいいが、ただそれだけを訊《き》かしてもらいたいと思《おも》っての。あれが太夫《たゆう》の御内儀《ごないぎ》なら、わたしはこれから先《さき》、お前《まえ》さんと、二|度《ど》と顔《かお》を合《あ》わせまいと、心《こころ》に固《かた》く極《き》めて来《き》たのさ」
「えッ。ではやはり。……」
「太夫《たゆう》。つまらない面《つら》あてでいう訳《わけ》じゃないが、お前《まえ》さんは、いいお上《かみ》さんを持《も》ちなすって、仕合《しあわせ》だの。――帯《おび》はたしかにわたしの手《て》から、おせんのとこへ返《かえ》そうから、少《すこ》しも懸念《けねん》には、及《およ》ばねえわな」
「どうぞ堪忍《かんにん》しておくれやす」
「お前《まえ》さんにあやまらせようと思《おも》って、こんなにおそく、わざわざひとりで出《で》て来《き》た訳《わけ》じゃァさらさらない。詫《わび》なんぞは無用《むよう》にしておくんなさい」
「なんで、これがお詫《わび》せいでおられましょう。愚《ぐ》なおこのが、いらぬことを仕出来《しでか》しました心《こころ》なさからお師匠《ししょう》さんに、このようないやな思《おも》いをおさせ申《もう》しました。堺屋《さかいや》、穴《あな》があったら這入《はい》りとうおます」
松江《しょうこう》は、われとわが手《て》で顔《かお》を掩《おお》ったまま、暫《しば》し身《み》じろぎもしなかった。
霜《しも》の来《こ》ぬ間《ま》に、早《はや》くも弱《よわ》り果《は》てた蟋蟀《こおろぎ》であろう。床下《ゆかした》にあえぐ音《ね》が細々《ほそぼそ》と聞《き》かれた。
月《つき》
一
「――そら来《き》た来《き》なんせ、土平《どへい》の飴《あめ》じゃ。大人《おとな》も子供《こども》も銭《ぜに》持《も》っておいで。当時《とうじ》名代《なだい》の土平《どへい》の飴《あめ》じゃ。味《あじ》がよくってで[#「で」に傍点]があって、おまけに肌理《きめ》が細《こま》こうて、笠森《かさもり》おせんの羽《は》二|重肌《えはだ》を、紅《べに》で染《そ》めたような綺麗《きれい》な飴《あめ》じゃ。買《か》って往《ゆ》かんせ、食《た》べなんせ。天竺渡来《てんじくとらい》の人参飴《にんじんあめ》じゃ。何《な》んと皆《みな》の衆《しゅう》合点《がってん》か」
もはや陽《ひ》が落ちて、空《そら》には月《つき》さえ懸《かか》っていた。その夕月《ゆうづき》の光《ひかり》の下《した》に、おのが淡《あわ》い影《かげ》を踏《ふ》みながら、言葉《ことば》のあやも面白《おもしろ》おかしく、舞《ま》いつ踊《おど》りつ来懸《きかか》ったのは、この春頃《はるごろ》から江戸中《えどじゅう》を、隈《くま》なく歩《ある》き廻《まわ》っている飴売土平《あめうりどへい》。まだ三十にはならないであろう。おどけてはいるが、どこか犯《おか》し難《がた》いところのある顔《かお》かたちは、敵《かたき》持《も》つ武家《ぶけ》が、世《よ》を忍《しの》んでの飴売《あめうり》だとさえ噂《うわさ》されて、いやが上《うえ》にも人気《にんき》が高《たか》く、役者《やくしゃ》ならば菊之丞《きくのじょう》、茶屋女《ちゃやおんな》なら笠森《かさもり》おせん、飴屋《あめや》は土平《どへい》、絵師《えし》は春信《はるのぶ》と、当時《とうじ》切《き》っての評判者《ひょうばんもの》だった。
「わッ、土平《どへい》だ土平《どへい》だ」
「それ、みんな来《こ》い、みんな来《こ》いやァイ」
「お母《っか》ァ、銭《ぜに》くんな」
「父《ちゃん》、おいらにも銭《ぜに》くんな」
「あたいもだ」
「あたしもだ」
軒端《のきば》に立《た》つ蚊柱《かばしら》のように、どこからともなく集《あつ》まって来《き》た子供《こども》の群《むれ》は、土平《どへい》の前後左右《ぜ
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