そで》を通《とお》したまま、早《はや》くも姿《すがた》は枝折戸《しおりど》の外《そと》に消《き》えていた。
「藤吉《とうきち》。――藤吉《とうきち》」
「へえ」
 奥《おく》からの声《こえ》は、この春《はる》まで十五|年《ねん》の永《なが》い間《あいだ》、番町《ばんちょう》の武家屋敷《ぶけやしき》へ奉公《ほうこう》に上《あが》っていた。春信《はるのぶ》の妹《いもうと》梶女《かじじょ》だった。
「ここへ来《き》や」
「へえ」
 お屋敷者《やしきもの》の見識《けんしき》とでもいうのであろうか。足《あし》が不自由《ふじゆう》であるにも拘《かかわ》らず、四十に近《ちか》い顔《かお》には、触《ふれ》れば剥《は》げるまでに濃《こ》く白粉《おしろい》を塗《ぬ》って、寝《ね》る時《とき》より外《ほか》には、滅多《めった》に放《はな》したことのない長煙管《ながぎせる》を、いつも膝《ひざ》の上《うえ》についていた。
「お兄様《にいさま》は、どちらにお出《で》かけなされた」
「さァ、どこへおいでなさいましたか、つい仰《おっ》しゃらねえもんでござんすから。……」
「何《なに》をうかうかしているのじゃ。知《し》らぬで済《す》もうとお思《おも》いか。なぜお供《とも》をせぬのじゃ」
「そう申《もう》したのでござんすが、師匠《ししょう》はひどくお急《いそ》ぎで、行《い》く先《さき》さえ仰《おっ》しゃらねえんで。……」
「直《す》ぐに行《い》きゃ」
「へ」
「提灯《ちょうちん》を持《も》って直《す》ぐに、後《あと》を追《お》うて行《い》きゃというのじゃ」
「と仰《おっ》しゃいましても、どっちへお出《で》かけか、方角《ほうがく》も判《わか》りゃァいたしやせん」
「まだ出《で》たばかりじゃ。そこまで行《い》けば直《す》ぐに判《わか》ろう。たじろいでいる時《とき》ではない。速《はよ》う。速《はよ》う」
 この上《うえ》躊躇《ちょうちょ》していたら、持《も》った煙管《きせる》で、頭《あたま》のひとつも張《は》られまじき気配《けはい》となっては、藤吉《とうきち》も、立《た》たない訳《わけ》には行《い》かなかった。
 提灯《ちょうちん》は提灯《ちょうちん》、蝋燭《ろうそく》は蝋燭《ろうそく》と、右《みぎ》と左《ひだり》に別々《べつべつ》につかんだ藤吉《とうきち》は、追《お》われるように、梶女《かじじょ》の眼《め》からおもてに遁《のが》れた。

    七

 鏡《かがみ》のおもてに映《うつ》した眉間《みけん》に、深《ふか》い八の字《じ》を寄《よ》せたまま、ただいらいらした気持《きもち》を繰返《くりかえ》していた中村松江《なかむらしょうこう》は、ふと、格子戸《こうしど》の外《そと》に人《ひと》の訪《おとず》れた気配《けはい》を感《かん》じて、じッと耳《みみ》を澄《すま》した。
「もし、今晩《こんばん》は。――今晩《こんばん》は」
(おお、やはりうちかいな)
 そう、思《おも》った松江《しょうこう》は、次《つぎ》の座敷《ざしき》まで立《た》って行《い》って、弟子《でし》のいる裏《うら》二|階《かい》へ声《こえ》をかけた。
「これ富江《とみえ》、松代《まつよ》、誰《だれ》もいぬのか。お客《きゃく》さんがおいでなされたようじゃ」
 が、先刻《せんこく》新《しん》七におこのの後《あと》を追《お》わせた隙《すき》に、二人《ふたり》とも、どこぞ近所《きんじょ》へまぎれて行《い》ったのであろう。もう一|度《ど》呼《よ》んで見《み》た松江《しょうこう》の耳《みみ》には、容易《ようい》に返事《へんじ》が戻《もど》っては来《こ》なかった。
「ええけったいな、何《な》んとしたのじゃ。お客《きゃく》さんじゃというのに。――」
 口小言《くちこごと》をいいながら、自《みずか》ら格子戸《こうしど》のところまで立《た》って行《い》った松江《しょうこう》は、わざと声音《こわね》を変《か》えて、低《ひく》く訊《たず》ねた。
「どなた様《さま》でござります」
「わたしだ」
「へえ」
「白壁町《しろかべちょう》の春信《はるのぶ》だよ」
「えッ」
 驚《おどろ》きと、土間《どま》を駆《か》け降《お》りたのが、殆《ほとん》ど同時《どうじ》であった。
「お師匠《ししょう》さんでおましたか。これはまァ。……」
 がらりと開《あ》けた雨戸《あまど》の外《そと》に、提灯《ちょうちん》も持《も》たずに、独《ひと》り蒼白《あおじろ》く佇《たたず》んだ春信《はるのぶ》の顔《かお》は暗《くら》かった。
「面目次第《めんぼくしだい》もござりませぬ。――でもまァ、ようおいでで。――」
「ふふふ。あんまりよくもなかろうが、ちと、来《き》ずには済《す》まされぬことがあっての」
「そこではお話《はなし》も出来《でき》ませんで。……どうぞ、こ
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